2011年12月28日水曜日

今どこにいるのか


ずいぶん久しぶりに一人で山に入ろうと思い立った。
前日は三時近くまで飲んでいた為、頭が少し痛む。
午前中に溜っていた家事をすべて終わらせ、地図を広げ目的地を決める。

山は雪が降っていた。ちゃんとした雪を見るのは今年初めてだ。歩き出してしばらくすると頭の痛みはすぐどこかにいってしまう。ザクザクと落ち葉を踏みしめる音、風によって木々が揺れる音、そして土の匂いが感覚を刺激し、どんどん気持ちが高揚していく。ここ何ヶ月のもやもやとした気分もどこへやら、「あぁ、山に来たかったんだな」と実感する。感動している間に目的地の池が目の前に広がった。池のほとりでバーナーで水を湧かしコーヒーを淹れる。

こんな雪が降っている日に山に来る人などいないので山の中では始終一人だった。そんな状況で怖さではなくむしろ安らぎのようなものを感じることができるのは今自分が山の中のどこを歩いているのかを把握できているからである。それは意識的に訓練したものではなく、小さい頃から山の中に一人で入っていく中で自然に身に付いたものだ。このような自然の中に身を置くことで得られる知恵や勘こそがきっと人の本当の力なのだと思う。ベテランの猟師になると木に残された爪痕から30通りの行動パターンを読み取れると聞いたことがある。また、太平洋の島々の人はGPSはもってのほか地図がない時代から星の動きを見ながら航海をし、お互いの島を行き来していた。震災のあった東北の方々があれほどまでに強いのは、厳しい自然の中でずっと暮らしてきたからだ。人が作ったシステムに寄りかからずに生きる力は自分にはまだ全然足りない。人は本当に進化しているのか。手の中の機械のおかげで何でもできると舞い上がっていては、それが無くなった時何もできなくなってしまう。わざわざ不便な生活をするのも違うと思うが、自分があくまで自然の一部であり、その中で生かされているという自覚だけはあったほうがいい。

さて、山を下りよう。
冬に合うBon iver

2011年11月28日月曜日

電池がなくなるように


京都は紅葉が見頃になり、一年の中でもかなり観光客が多い時期になってきた。人との待ち合わせの時刻に遅れそうになることもしばしばである。

先週の祝日から五日間連続で移動と宴会を繰り返し、睡眠不足も相まって昨日の夜は完全にダウンしてしまった。無限に続くと思っていた体力が底をついたのか、どうがんばっても起きることができない。人に話しかけられているにも関わらず、曖昧な返事しかできず、終いには意味不明なことを喋っていたようだ。夢と現実の間にずっといるといった感じ。それで自転車に乗るものだから街路樹や看板に何度も 突っ込んでしまった。

しかし、体は正直だなと思う。もうやめときなさいというサインを出してくれる。つい無理をしてしまう質なのでこのサインがなければ、本当に倒れるまで無理をし続けるかもしれない。サインに従い今日はゆっくり寝よう。おやすみなさい。




眠りの一曲

2011年11月9日水曜日

知らない街に着いたら


神戸の老舗洋食屋さんにて先輩との会食。
会話の中で旅に出て知らない街に着いた時、まずどうするかの話になった。
先輩の答えは「トイレに入る」というもので、これは偶然にも自分と一致する答えだった。

自分はいつもトイレに入っている時(座る場合のみ)に自分が移動してきた距離を実感する。昨日の夜は自宅のトイレに入っていたのに、今はこんな知らない街の雑居ビルの中でトイレに座っている。不思議だ‥‥とこういう具合である。考えてみれば当たり前の話で、トイレの中は誰に邪魔されるわけでもなく、冷静になって状況を整理できる場所である。きっと同じ様にトイレに入った時にいろいろ思考を巡らす人は多いだろう。

しかし、記憶の中にある最も強烈なトイレ体験は、誰にも邪魔されない場所ではあったが個室の中ではない。それはゴビ砂漠のど真ん中である。羊ばかりの食事で下して苦しんでいたにも関わらず、地平線に沈んでいく夕日がオレンジ色の線をかいた時、美しさのあまりいつの間にか泣いていたことを鮮明に覚えている。見渡す限り人っ子一人いない砂漠の中でのこの体験は、冷静になれるという前記のトイレとは真逆の、すべてを忘れてしまうようなぶっ飛び体験であった。

2011年10月17日月曜日

たまに会う


ひとりで夜の公園を走っていると、目の前に雌の鹿が現れる。
その場でジョギングをしながら鹿と見つめ合う。するとさらにもう一匹の鹿が現れ、さらにさらに親子連れまで登場した。真っ暗な公園で四対一である。じわじわ距離を縮めていくと、四匹が同じタイミングで逃げていった。
一昨日も今制作の為に毎週通っている兵庫県の街でヌートリアに遭遇した。川岸で身を屈めながら気配を消している私の前をゆっくりと泳いでいく。
なぜか、自分が切羽詰まりそうになってくるといつも野生動物が目の前に現れる。もちろんそういう時に山などに入っていくからだが、普段山で遊んでいる時にいつも会えるわけではない。
野生動物に出会う度、妙に落ち着きを取り戻せる。というよりは自分が迷ったり悩んだりしていることが大したことではないように感じるのだ。今回もなんとかなるような気がしてきた。よしよし。

2011年9月27日火曜日

すばらしい墜落



台風の後、急に涼しくなり、秋物を押し入れから引っ張り出す。あっという間に九月が終わろうとしている。気がつくと9月にまだ一度もBlogを更新していなかった。


最近読んで面白かった本に、ハ ジンという中国系アメリカ人が書いた「すばらしい墜落」というものがある。この本を読んで思い浮かんだのは、以前に読んだ、チママンダ•ンゴズィ•アディーチというナイジェリア人女性の書いた「アメリカにいる、きみ」という本でる。この2作には共通したところが多い。まずどちらの作家も異国に生まれ現在はアメリカで生活する移民だという点。それから同郷移民達の日常が書かれている点。また短編集というところも共通している。
移民というのは不思議な立ち位置である。母国の人間からは出て行った者であり、移住先ではよそから来た者となる。宙に浮いたような状況で、ふたつの国の文化のはざまで生きている。そこには摩擦によって様々なドラマが生まれるため、日常を描いているだけでも面白い。
そういえば、面白い音楽もそういった文化の摩擦の中に生まれる気がする。ビートルズもアイルランド系移民だったはずだ。スケールは小さいが、地元を離れ違う街で暮らしている自分には、こういった移民文学や音楽がすっと心に入ってくる。


すばらしい墜落

アメリカにいる、きみ


これもまた、そんな中のひとつ

2011年8月22日月曜日

夏の旅八日目


東京→京都
前日のお酒がぬけないまま起床し、先生の展覧会を見に行く。大雨、しかも湿度が高い中で移動を繰り返していたら、この夏の旅の中で一番疲れてしまった。昼過ぎに新幹線に乗り夕方京都に到着。京都も気温が少し下がって少し過ごしやすくなっていた。
今回たくさんの人にお世話になり、その土地を歩いて東北(とくに岩手)が身近な場所になった。夏の旅一日目に先輩の工房を後輩みんなで手伝ったように、知り合えた方やお世話になった土地の為に何かをしたいという想いで動くことが自分には一番しっくりくる。大きなことは言えないしできない。日本にあった”結(まだ残っている土地もある)という相互扶助の組織を、交通手段の進歩やネットによりある意味小さくなったこの世界で現代版として実行していけないだろうか。
大船渡でお世話になっていた方々は中学高校の同級生で何かをしていこうとしていた。町から東京や仙台に出て行った人もみな時間ができれば帰ってきて、自分にできることをやっていた。地元に残っている人たちも帰ってきた人やボランティアの人の意見を積極的に受け入れみなで動いていこうとしている。職業も立場も被災状況もバラバラの方々が、時に意見をぶつけ合いながら、みなで考え動いている姿は本当に感動したし、被災地はけして下を向いているわけではないと感じた。
東北は本当に豊かな土地である。自然は本当に厳しいが、その分人間にたくさんの恵みを与えてくれる。この土地で先祖代々暮らしてきた人たちはそういった自然の顔をたくさん知っている。今後の復興の中で、まだ世界中のどこにもない幸福の価値観や暮らし方が生まれてくるかもしれない。そこに自分はどのように関わっていこうか?これからである。

2011年8月19日金曜日

夏の旅七日目


大船渡→気仙沼→一関→東京
こちらに来てから昼夜問わず余震がある。揺れる前のゴォ−という地鳴りは恐怖心をあおる。震災から五ヶ月被災地の方は毎日この中で生活しているのだ。
友人と話し合い、滞在予定を縮めて本日こちらを出ることにする。最後の日ということで朝大船渡の町をぶらぶら歩いてみる。宿泊していた地域は床下まで浸水したということだが、みなすでにお店を再開している。商店街の一角にアメリカのボランティア団体の本拠地があり、その前を通りかかるとちょうどシャベルなどをバスに詰め込み、本日の作業場所に出発するところであった。この団体の活動はほんとにしんどいらしく、直射日光のなか一日中溝の泥かきなどをするそいだ。老若男女様々な方が参加している。出発する様子を見ていると日本人の方に声をかけられる。
「ボランティア希望の方ですか?」
「すいません、今回は被災地を見て回って今日帰るんです」
「次はぜひお手伝い願います」
今回の自分の立場は微妙である。当初のプロジェクトが中止になり、今回は被災地を見て回るだけの形になった。しかし、今回現地を知り現地の方と知り合いになれたことはよかったし、地元の方もまず見てほしいと言ってくださった。とにかくこれで終わりにしてはいけない。
新幹線の駅がある内陸部の一関に向かう前に気仙沼の様子をもう一度見に行く。気仙沼は海水にオイルが混じって流れてしまい、かなり広い範囲で火災が発生した場所である。火災によって表面の塗料が溶けてしまった建物、車は酸化して茶色になっている。他の地域とはまた違った風景が広がっていた。
一関で三日間お世話になったボランティアの方にお礼を言い新幹線に乗った。仙台で一泊しその後山形入りするという友人夫婦とも仙台でお別れし、自分は先生の展覧会を見るため急遽東京で一泊することにした。夜上京している友人たちと久々に会い飲んだ。みんな元気で何より。
朝までいた岩手と東京のギャップに驚くが陸続きでこの先に被災地があるんだという感覚になる。自分の中で岩手は遠く行ったことのない土地ではなくなった。

夏の旅六日目


大船渡→陸前高田
朝目を覚ますと一緒に宿泊している地元出身のボランティアの方はもう出発の準備をしていた。大船渡には世界中の被災地で活動しているアメリカのボランティア団体が本部を構えている。地元からも何人か参加しているようだ。
今日は昨日国道沿いから見ただけではわからなかった、被災場所や避難所、仮設住宅を気になった場所で車を止めながら見ていく。はじめてこの辺りに来た自分は、悲しみよりも先にその景色に圧倒されてしまう。言葉がでない。
避難した人たちは、このあたりではみな公園や小学校などに建てられた仮設住宅に移動したようだ。市街地が完全に流された陸前高田では、病院やスーパー、コンビニまで仮設で作られ、仮設住宅近くにあらたな街ができていた。
津波の被害は独特で少しの高低差で隣り合う住宅でも全壊と半壊、もしくは床下浸水と被害状況が違う。流されて何もなくなってしまった土地の横で地元の方は普通に生活されている。現地に行ってメディアが作るイメージがすべてではないことがよくわかった。けしてみなが悲観にくれてばかりいるわけではない。
津波被害の地域を回って、ひとつ気になったことは、鉄筋コンクリートで作られた比較的新しいエリアと昔から人が暮らされていた木造建築エリアでは津波後の景色にかなりの違いがあったこと。鉄筋コンクリートの街の跡は基礎がだいたい残っていて、そこに何があったのか想像できる。言葉が正しいかはわからないが廃墟という言葉が合い、絶望感に近い圧倒のされ方をするのに対し、木造エリアは完全にすべてが流され、道が残っているだけなのだ。その景色はまたこれからこの場所がどう変わっていくのだろうかと想像することができた。これは自分の片寄った視点もあるのだが、かなり興味深い発見であった。
実際現地に来て何が不謹慎になるのかなど自分の中でかなりあいまいになってしまった。現地の人の生活や活動を見ていると、被災地以外の地域の人々の方が過剰に反応しているようにさえ感じる。こちらの人は自然に対して謙虚であるし、国や自治体に求めるばかりでなく、自分達でできることはどんどんやっている。都会の人間よりずっと強い。

2011年8月17日水曜日

夏の旅五日目


仙台→一関→気仙沼→陸前高田→大船渡
朝起きると変な体制で寝ていたせいか腰が痛い。早めにゲストハウスを出てスタバでバスまでの時間を潰す。仙台はバスが多い。東北各県いたるところにバスが出ている。山が多いこともあり電車よりもバスの方が便利なのではないか。バスの発着を見ているとここが東北の中心地だということがよくわかる。
仙台からバスに乗り一関を目指す。内陸部を通る高速からはどこまでも広がる田園風景が見える。そしていたるところにブルーシートを屋根にかぶせた家も見える。津波被害が大きくでているが、こういった内陸部の被害はあまり報道されていない。
一関で友人夫妻と今回被災地の案内をしてくれる団体の方と合流し、車で津波被害の大きかった沿岸部を目指す。はじめに気仙沼を見たのだが、地震で地盤沈下したこともあり、海の位置が道路ぎりぎりだった。一階部分がほぼなくなった家が多く、こういった家は撤去されずに残っていた。つぎは陸前高田へ、こちらは地形的に平らだったこと、大きな川があったこともあり、被害の状況はすさまじかった。街がひとつまるまるなくなったという感じ。いたるところに瓦礫の山がある。車を降りて瓦礫を見てみると、つい五ヶ月前までここでは日常生活があったことが実感できる。
その後今回宿泊でお世話になる大船渡へ。大船渡も海側の被害は大変なものである。船は陸の上に上がったままだ。被害の少ない地区の靴やさんの裏に畳をひいてもらい、ここで何日かお世話になる予定だ。大船渡では、今回案内をしてくださる方の同級生の方々が定期的に集まり今後どのようにしていくか話し合いをされている。また海外の大きなボランティア団体も本部を構え、瓦礫の撤去や見つかった写真の整理などをされている。
集められた写真の中には今回の津波で亡くなられた方のものもあるだろう。ここには日常の生活がついこないだまであったのだとやはり強く感じた。

2011年8月16日火曜日

夏の旅四日目


名古屋→仙台
前日の夜名古屋港を出発し、今日はほぼ船の中で寝て過ごす。海は荒れておらず、船があまり揺れないのは酔いやすい自分にとってはありがたい。乗船したときから気になってしょうがなかった人に思いきって声をかける。
「岐阜の方ですか?」
「はい…」
「人間違いだったらもうしわけないのですが、竹中くん?」
「はい…」
「おれ同じ諏訪山団地に住んでた川上。三人兄弟でさ、ひとつ上の学年の長男なんやけど…」
「あっ思い出しました!」
まさか仙台行きの船の中で、近所の幼馴染みに会うとは思っても見なかった。彼は岡山の大学に進学し、現在は大阪で働いているようだ。つまり自分と同じように流れている部類。お互い今までの旅の話で盛り上がった。
四時頃仙台港へ。ぐちゃぐちゃの車、うち上がった船、一階部分が裸になっている倉庫、集められた瓦礫の山。復興は進んでいるが、すべてが一瞬で消せるわけではない。船のデッキから下を見る乗船客はみな黙ってその景色を見ていた。
本日は仙台で一泊。格安ゲストハウスのドミトリーで寝る。海外同様こういったゲストハウスには様々な国から旅行者が集まる。またボランティアの人も多い。ある団体の副代表の方の話ではまだやらなければいけないことは山のようにあるとのこと。夏休みに入り、大学生が増えるかと思ったが、思いの外少ないようだ。彼いわく現地にこなければ結局何もわからない、くればすべて変わるということだった。そんな中で面白かったのが彼があったボランティアの中で三割ほどが岐阜の人だということ。なぜだろうか…不思議だが嬉しくはなる。
ひとりで仙台の街を歩いていると、ここに地震がきたとは思えないほど、栄えている。ほぼすべてのお店も開いている。いたるところに「がんばろう日本・がんばろう東北」という垂れ幕があるぐらい。(もちろん一瞬立ち寄った旅行者の表面だけを見た感想)
人の力はすごいものだ。
フットサルの筋肉痛でしんどい。早く落ち着いてほしい…

2011年8月15日月曜日

夏の旅三日目


岐阜→名古屋
午前中は中学や高校の友達とフットサルをして過ごした。昨日の先輩に続き、結婚報告や奥さんの妊娠報告を多数受ける。みんな確実に大人になっている。自分とは逆に地元に残り、しっかりとそこに根をはっているみんなを尊敬してやまないし、逆に自分はみんなの刺激になれているのかと自問する。
フットサル後、荷物をまとめ名古屋へ。フェリーに乗り仙台をめざす。ひさびさの船旅。船の出発の瞬間は毎度興奮してしまう。

2011年8月14日日曜日

夏の旅二日目


信楽→岐阜
朝一番に信楽の先輩宅を出て、実家のある岐阜へ。祖父母を買い出しに連れ出したり、犬を散歩して時間を過ごす。年に一二度しか実家に帰らないため、当たり前のことだか祖父母も親も犬も毎回歳を重ねている。そしてそのスピードに毎回驚いてしまうのだ。家を離れて8年、実家で暮らしていた時とはまた違う家族との距離感にこれでよいのかと考える。
夜は最近結婚した先輩宅へ。自分がまだ独り身だけに先輩の話がおもしろく、日付が変わっても話はつきない。

2011年8月13日土曜日

夏の旅一日目


京都→信楽(滋賀)
京都から先輩の工房兼住居の改装手伝いの為、ローカル線にゆられ信楽へ。三月の改装着手から数えておじゃまするのは三回目だが、もう人が十分住めるまでになってきた。これを日頃一人でコツコツやっているとは…。
今回は男六人が助っ人で呼ばれどうしてもひとりでできない力仕事をしていく。一人なら何日もかかる仕事を男七人なら30分程でこなしてしまう。人数がいるというのはすごい。かつて集落ごとに「結」という相互扶助の組織があったことも納得できる。今は様々な仕事は細分化され、すべて業者任せである。近所の人にわざわざおねがいすることなどない。しかし、みんなでひとつのことに取り組むなかで生まれる連帯感・責任感は、ひとつのコミュニティーを維持するためには必要だと感じた。
夜はさんざんお酒を飲んで、ほぼ床の上で就寝…

2011年8月10日水曜日

バス停


ある日、山間部の小さな集落の中にある農協の前のバス停で、バスでやってくるはずの人を待っていた。自分以外にはかなり歳を重ねているおばあちゃんがひとりバスを待ってベンチに座っている。辺りには川の音と鳥の声だけが響いている。
そこへ近所の子供6人がプールの道具を持って現れる。農協には小さな商店が併設されており子供たちはその中に入っていく。しばらくすると彼、彼女らはアイスクリームをくわえ外に出てきて農協で働いている若い男と話をしている。典型的な夏休みといった感じのその風景を見ていると自然と自分の口角が上がり、目尻にしわが寄っていることに気づく。ふと隣を見ると老人も子供たちを見て笑っている。
山の陰からバスが現れ、自分が待っていた人がゾロゾロと重い荷物を持って下りてくる。
「いってきまーす!!」農協の男に子供たちは別れを告げバスに乗り込む。遅れておばあちゃんも乗り込む。バスがゆっくりと走り去る。農協の男は仕事に戻る。
また辺りは川の音と鳥の声だけが響いている。
1日に4回しかこのバス停にはバスはこない。その度に人々は集まってきて言葉を互いに交わす。知らない場所のこの一瞬の交流に、見ていただけにせよ立ち会えたことが妙にうれしかった。

しかし、毎度のことながらなぜ自分が今ここにいるのか不思議に思う。

2011年7月25日月曜日

石転がって


たとえば、岩壁が崩れ大きな石が谷に落ちる。
石は川の流れの中で止まり、川の流れを遮断する。
川はそれまでと同じように流れることは不可能になり、新たな流れをつくり始める。
もし、長い時間が経ち、この大きな石をどかしたとしても、川は石が落ちてくる前の流れと
全く同じように流れるわけではない。すでに大きな石によって周りは様変わりしている。
また新たな流れができるのだ。

すべてのことはこのたとえと同じだと川を見ながら考えた。

この川に住む魚にとっては、石が落ちてきたことも石がなくなったことも大きな事件である。しかし、産卵の為に毎年この川に遡上してくる魚はどうだろうか?もちろん大変な事に違いはない。しかし、どこか遡上をしてくる旅慣れた魚は、このような変化を深刻には捉えない気がしてならない。

いい意味でも悪い意味でも旅をするものは身軽なのだ。ひとつは変化することに慣れていること。もうひとつは被害や責任が少ないこと。

2011年7月18日月曜日

またひとつ


先日またひとつ歳を重ねた。
毎年思う事だが、家族、友人、後輩たちにお祝いをしてもらい自分が本当にたくさんお人たちに支えられている事を実感する。逆に自分はみんなの為に何ができているだろうか?社会や環境に対してアクションを起こす事は大切だが、それと同じ分だけ、それ以上に自分の周りの人の為に動く事が大切なことだと思った。そこが一番リアリティーがある場所なのだから。
また、この歳は両親の間に自分が生まれた歳でもある。今の自分が子供をつくることなど想像もできない。きっと大変だっただろう。ある日突然親になるのだ。よくここまで育ててくれたものだ。
今年は大きく人生が動く予定だ。動かしたいと思っている。そのためには目の前にある事を誠実に確実にこなしていくべきである。そしてどんなことでもそこに何かを学ぼうとする姿勢が大切だ。最近ただ毎日をこなすだけになっていた自分を反省した。さて次の誕生日はどこで誕生日を迎えているだろうか?

とにかく常に自分を動かし続けること。

2011年7月10日日曜日

同じ名前の村


暑い‥‥家がサウナのよう。

さて先週末は、この暑い盆地を離れ奈良県の川上村という場所に行った。関西に来てからずっと紀伊山地に行きたいという想いがあったのだが、結局行けないまま7年ほど経ってしまった。やっと行ける時間ができたので、どうせなら自分と同じ名前の村に行ってみる事にした。
川上村にはコンビニが一件もない。スーパーさえも一件もない。あるのは人工林の山と深い谷、川、公共施設、そしてダムである。公共施設とは村営温泉旅館に図書館、芸術家の滞在型アトリエ、川の博物館などなどで、とにかく数が多いように感じる。それはがきっとダムの力だろう。この村を見ているとよく分かる。詳しくは→大滝ダム
私たちが住む都市は色々物事が見えないように作られている。騒がれている原発もそうだが、都市からは慣れた場所にダム、ゴミ処理場、発電所などがあり都市の生活を支えている。その土地の人々はそんな施設のすぐ近くで慎ましく生活をしている。

また、翌日には大台ケ原という高原をトレッキングした。車で1500メートル程まで上がれるここはハイキング気分で誰でも高山を楽しめる場所だ。おすすめである。奈良といえば鹿だが、高山の霧の中で見る奈良の鹿は新鮮であった。
全国に川上村はまだいくつかあり、いつかすべての村に行ってみたいものである。



2011年7月2日土曜日

続 作る場所


連日うだるような暑さで、エアコンのない我が家にいるとまるでサウナのように汗が吹き出る。今年の梅雨はどこに行ってしまったのだろうか?こうも降らないと水不足や農作物の事が気になってくる。

先日の先生、先輩の工房見学に引き続き、先週末も先輩夫妻の住居兼工房見学をさせていただいた。滋賀の琵琶湖大橋の近くの古い住宅街の中に先輩は夫婦と猫一匹で住んでおり、そこで制作もされている。先輩の家は一軒家で土間があり、いい感じの縁側もついている。建物自体は非常に古いのだが、骨董を集める趣味がお二人にはあって、世界中で集められた物たちが家の雰囲気にとても良く合っていた。
家を一通り見学させていただいた後、先輩のびっくりするようなおいしさのごはんをいただき、3時間ほど人生相談をしていた。お二人は旅行をよくされていて、特に奥さんはホームステイや1ヶ月の長旅をされて、海外への移住まで考えられたそうである。そんな奥さんの言葉で非常に印象的だったのは、「昔は海外のことばかり考えていたし、あちらに住んで制作したいと考えていたけど、時が経つにつれあちらで経験できる事がこちらでもできると思った。」というものである。もちろん奥さんはさんざん通った上で出た考えで、今でももし機会があれば行きたいという事だったが、自分も今後海外を回ってみて、最終的に同じような考えにいきつくのだろうかと考えながら電車に揺られて京都まで帰ってきた。

2011年6月20日月曜日

あの頃は


夜遅く外に出たい衝動に駆られ、自転車で20分ほどの場所にある本屋へ行く。
この本屋は全国に支店があり本に限らず若者向けの様々なものを売るお店である。

高校生の頃生まれ育った場所では音楽番組に出ているような歌手のCDしかお店にはなかったし、本屋も特殊なものを売る店はあまりなかった。
そんな中で上記の本屋が自転車で1時間の場所にあり、部活の合間を見つけてはよく足を運んでいた。そこにはアングラな若者文化が所狭しと並べられていて、行く度に興奮していたものだ。毎回1時間はその小さな店で遊べた。
しかし、それから8年ほどが経ち、その店に足を踏み入れるといかにもチープで表面的な印象を受け10分も中にいることができなかった。これは、このお店の批判がしたいわけでは決してなく、歳のせいもあるだろうが自分が都市の文化にどっぷりと浸かってしまったと感じたのだ。

高校時代に外に出たいという欲求をそうとう溜込んだ私は、京都に引っ越してきたその日に親を見送るや否や同郷の友人と自転車で中心街のクラブに向かった。CDの中でしか聴いた事のないDJが京都には定期的に来てイベントに出ていた。夢のように感じた事を覚えている。今ではどんなに好きなアーティストでも、また来るだろうとめんどくさがって行かないほどになってしまった。ここまで文化的な欲求に満たされてしまったら、もう一度田舎に住む事などできないのではないかと思う時がある。幸い当時よりインターネットが発達した分、田舎の生活も変わってきているのだろうが‥‥。田舎で身体に生活を近づけたいと常々言っているにも関わらず、ここは矛盾している。

どちらにしても、高校生の頃のあの貪欲さは見習うべきだなと感じた。


高3の頃偶然夜中のテレビでこの映像を見てどれだけ興奮した事か。久々に見て再度興奮してしまった。

2011年6月17日金曜日

作る場所


梅雨の長袖だと暑く、半袖だと少し寒い毎日

先日京都の宇治にある先生の工房にお邪魔した。
お父様の代から使用されている工房で、山の中にポツリと立っている。庭には梅などの木が生え、筍もいたるところから顔を出していた。きれいに整頓された工房からは、1mm単位まで神経を注ぎ作品を制作する先生の姿が想像できた。
その後、日頃からお世話になっている先輩の工房に遊びに行く。こちらは古い陶器店の跡で廃墟好きの人にはたまらない空間である。現在も自分で改装されている最中で、掃除から始まりすべてを自分の理想に作り替える作業はものづくりをしている人間にとってはたまらないものがある。先輩はこの工房を“大きなおもちゃ”だとおっしゃっていた。今後の改装計画を話すその顔はまさにおもちゃを前にした子供の様である。

どちらの工房でもその人が匂う。場所は人を記録する。
そういった痕跡からその場所で営まれた生活や主の性格を想像するのが楽しい。
自分もそんな“おもちゃ”をいつか持つのだろうか?

2011年6月10日金曜日

ヨウルのラップ


昨日今日と湿度が高く、少し動いただけで汗をかいてしまう。
季節の変わり目。

友人の写真集が、今日リトルモアから発売された。
近くの恵文社という本屋に行くと、入口すぐの場所にその写真集はあった。
発売日だと言うのにもはや残り一冊しかなく、急いで手に取りレジへ向かう。
一つ上の学年で、バイト先も一緒だった彼女は、とても不思議な人だった。
そして写真集もやっぱり不思議。これからこの不思議なパズルをじっくり解く。

毎日なんやかんやと遊んでいるみんなが、様々なメディアに露出しているのを
最近よく見る。みんなやってるな‥‥やんなきゃな。

成田 舞 写真集「ヨウルのラップ」littlemore


2011年6月7日火曜日

土地に呼ばれる


先週末の3日間は仕事で石川、福井にいた。

この1年間でこの土地に足を運ぶのは5回目である。
その土地が大好きで何度も足を運ぶ土地がある。長野など何度行っているかわからないほどだ。しかし、この1年間石川、福井へは意識をして行っているのではなく、偶然が重なって5回も足を運ぶ事になった。このような事はたまにある。それまで意識をしていなかったにも関わらず、偶然何度も訪れる機会ができ、その度に魅力を発見し、どんどんその土地にはまってしまう。好きで足を運ぶ土地とはまた違った偶然の発見、感動、出会いがある。

これはなんだろうか?何かその土地に呼ばれているような気がしてくる。

2011年5月31日火曜日

5月が終わる


ここ何日もBLOGを更新できていなかった。
一度リズムが崩れると、ついついめんどくさくなってしまう。

あっという間に5月が終わった。
たくさんの人に会い、たくさんの酒を飲んだ月。

震災からもうすぐで3ヶ月が経とうとしている。今日現地でボランティアをしている友人からメールをもらった。とにかく人手がほしいとのこと。いつでも歓迎するから来てくれと誘いをもらう。実際問題、仕事を長期間休むのは難しい。考え方によるのだろうが、今自分が抜ける事で同僚が被る迷惑の方が、自分にとってはリアルなのだ。関西に住む人間にとってテレビやラジオ、新聞、インターネットを見なければ、何ら変わらない普通の日常である。(もちろん職業によるが)それはけして悪い事ではない。
しかし、みなどこか浮ついている。これでいいのだろうか?と思いながら毎日を過ごしている。だからお酒の量も増えている気がする。

さあ、どうする?

2011年5月25日水曜日

絶対な存在


京都(どちらかというと左京区)に暮らしていると、いつも目にするものがある。
それは比叡山と鴨川である。私は毎朝出勤時に比叡山を見上げる。
「今日は雲がかかっているな」「緑が濃くなってきたな」「雪化粧をしているな」
などと思いながら、その日一日がんばろうという気持ちになる。
同じように鴨川を見るとき、心が落ち着くのがわかる。
この二つは私にとって絶対的な存在である。
日々変化はしているが必ずそこにある。絶対的な自然。
生まれ育った岐阜ならば長良川。母の実家滋賀ならば琵琶湖だろう。
その土地の人は、山、川、湖、海などの話をする際、母親の前の子供の様になる。
優しさも恐ろしさも兼ね備えたそれは心の拠り所、土地の象徴になっているから
ではないか。まさに母親そのもの。

大阪、名古屋、東京(中心地)などに行くと心がやたら忙しなくなってしまうのは、
この絶対的な存在がすぐに見当たらないからではないか。
人が作ったものに囲まれている。安定と言われているあまりに不安定なものたち。

2011年5月22日日曜日

後半盛り上がる


今日は、朝雨が降っていたため、当初の予定がキャンセルになり
お昼過ぎまでは家で本を読んで過ごした。

夕方友人から話があると言われ、なじみのカフェで会う。
話を聞くと展覧会をやらないか?ということだった。
今年はまだ発表の機会が決まっていなかったので、とりあえず
了承はしたが、展覧会の日程やプラン、場所もまだ不明確のもので
これからなかなか大変そうである。

夜は別の友人からの電話で、これまた展覧会の誘い。
こちらは規模がとても大きなものだが、行政が絡んでいるので、これからの
やり取りがなかなか大変そうである。予算もほぼ付いていないようだ。
話をもってきてくれた友人は困り果てていた。

昨年、滋賀県で大きな芸術祭に参加した際も、会場とのやり取りや
出展者間の連絡、広報、メディアへの露出などなかなか大変だった。
何かここ最近、そういったものが多い。きっと乗り越えなさいということだろう。
人に声をかけてもらう、頼ってもらうというのはすごくうれしい事だ。
そして、それに対してはちゃんと返そうと思う。あいてが望む以上のことを
したい。それがのちのち自分にも返ってくるだろう。

いやはや、午前中はなんてことのない休日だったが、午後からはどっと肩が
おもくなった(笑)体がなまっている証拠だ。動き出そう。

2011年5月21日土曜日

ただ、悩む


人生は悩んでばかりである。今日はそんなぼやき。(はずかしい内容)

京都に来て8年目。まさかこんなにも長くこの街にいることになるとは思わなかったが、現在の仕事も残すところ11ヶ月程となり、そろそろ今後の事を考えなければならない。

「何になりたいの?」という質問をたまにされる事がある。陶芸家?芸術家?思想家?教育者?システムエンジニア?グラフィックデザイナー?正直何一つとして「それです。」と言えるものはない。そういう固有名詞は、単なる認知のための標識にすぎないという考えがずっとあるし、職業に限らず、それに固執して頭の固い人を見ると、こうなりたくないなとつくづく思う。様々な境界(人がつくったもの)を飛び越えていく人間こそが本来の人間のあるべき姿なのではないか?
一方でこの言い種は、“何か一つに決めきれない”“勝負を仕掛けられない”言い訳なのではないか?と思う時がある。自分は器用貧乏でそれなりに何でもこなせるが、何においても突出しない。「自分は何がしたいのか?できるのか?」という状態によくなってしまう。

しかし、人にとって最も大切な事は何か。どんな生活をするべきか。どのような事を世の中に訴えていきたいか。などは明確である。それは生きていくためのコアであり、思春期に与えられた人生の課題だ。中学生の頃からずっと考えているし、考えを更新していくために、様々な土地を周り、様々な人に会ってきた。それは今の自分の自信になっており、すべての判断基準もそれに則している。

はて?では何を迷っているのか?
結局は、社会的に様々な責任を負うべき年齢になってきて、同世代との比較やお金がすべての物差しになっている世間に対して焦りを感じてしまっているだけなのだ。わかりやすく今私はこんな事をして、これだけ稼いで、こんな将来像をもっていますよと言わないといけない気がしていただけなのだ。人から見える表層の部分は、どうしても気になってしまうものだ。書きながらわかってきた。
 自分に正直に動いていけば、目の前に進むべき方向、乗り越えるべき課題、守るべきものは出てくるだろうし、それをこなしていくしかない。すべては諸行無常であって、いくらプランニングしたってうまくいかないことだらけだ。それは自然の真理
で、人間が自然だからどうしようもない。

なぜ、悩みだしたかといえば、自分とはどんな人間なのかをまとめて文章化し、外国に送る必要があるからで、それがうまく行けば外国に行けるかもしれないからである。そう、すでにやるべき事は目の前にある。

でもね、弱気にもなってしまいますよね。それが人ですよね。(笑)

2011年5月19日木曜日

ウエサク祭

5月17日は満月だった。

友人から、
「今回の満月は特別であり、京都の山奥鞍馬寺で“ウエサク祭”という祭があるから行こう。」
と誘われ、仕事終わりに天狗で有名な鞍馬寺まで、叡山電車に揺られて向かった。
祭は本堂で行われるため、電車を下りてから、20分程山道を登る。
祭というので出店などがあるのかと思いきや、あたりはひっそりとしていて、本堂までの山道は真っ暗であった。途中、手に小さな火を持った人とすれ違いながら、上で何が起こっているのかまったく見当がつかない。

やっと登りきったその先には、想像とはまったく違う光景が広がっていた。そこには何百という小さなひかり(心の灯火というらしい)が境内いっぱいに灯され、みなその火を見つめているのである。その光景は唖然とするものだった。


しばらく、あたりの様子をうかがっていると、私たちが着いた時間はちょうど第一部が終了した時であり、もうすぐ第二部が始まるらしい。人だらけの境内でなんとか場所を確保し待っていると、第二部の開始が告げられた。指示されるがままに、何百人が満月の方を見て座り、小さな鐘の音に続いて、パーリー語のお経が読まれる。そのお坊さん(スリランカの方もいらっしゃった)の小さな声が、いくつも重なって、あたりは不思議な空気になる。信じられないが、境内一杯の人々が静まり返り、みなお経を聴きながら、月に向かって瞑想しているのである。
一切予習をしてこなかった私たちは見よう見まねだが、この空気感を共有しているだけで、とても神聖な気持ちになっていく。

45分程で瞑想が終了し、境内の真ん中に盛られた、植物の山に火がつけられ、大きな炎と煙が満月の夜空に昇っていった。実はこの祭、朝まで続くらしく、翌日の仕事を控えた私たちは終電ぎりぎりで下山し、帰路についた。京都8年目にして、初めてこの祭りの存在を知った。とことん奥の深い土地である。ちなみにこの祭りは世界中で行われているそうである。

※この祭は、祈りの間撮影は禁止されている。写真はインターネットから拝借した。
※下記は鞍馬寺による説明(興味持った方はちゃんと調べてみて)


【五月の満月には天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーがふりそそがれるという。この夕、満月に清水を捧げ心のともし灯を輝かせつつ、ふりそそがれる神秘的なお力を身に受けて、自分とすべてのものの「めざめ」のための熱い祈りを捧げるのが、光と水と聖音の祭典「五月満月祭(ウエサクさい)」である。
祭典は三部に分かれ、第一部は「きよめ」の祈りで、祭典に集う人々は、まず自己と場の浄化のために魔王尊を讃仰(さんごう)する。月が天頂に近づくころ、ひとりひとりが持つ純粋無垢な心の象徴の「心のともし灯(び)」に灯が点(とも)される、祭場がともし灯に埋まると、銀碗に清水を満たし月に祈りを捧げる。
次にともし灯を高く掲げて、真実に生きぬくための強い力を与え給えと「お力の宝棒」の加持(かじ)を受け、月光のふりそそがれた明水をわかち頂き、慈愛のみ恵みを心に満たす。そして第二部では、月光を受けながら大地に腰をおろし静かに「はげみ」の瞑想を行い、夜明けの近い第三部には、智慧(ちえ)の光を輝かせ真実に生きることへの「めざめ」を象徴する聖火が天を衝(つ)いて上がる。
最後に全員で『心の書(ふみ)』を唱え魂の夜明けを迎える】

2011年5月16日月曜日

東京ツアー


週末を利用して東京へ

目的は、普段からお世話になっている先輩ふたりの展覧会を回ること。そして、東京で暮らしている親族や友人たちに会うこと。

行く前から聞いていたのだが、東京は真っ暗だった。昼間の地下鉄は半分ほどしか電気がつていないし、エスカレーターも至る所で止まっている。友人の話では会社も早く退勤させられているようである。また、2週間ほど前までコンビニの棚は午後には何もないような状態だったらしい。節電でライトもついていない、商品も並んでいない棚の写真は異様であった。
東京でも震度3程の余震はしばらく続いていたようだが、みな揺れに慣れてしまい、3ぐらいでは会議なども中止しなくなっていたそうである。
関西で普通に生活する分には、今回の震災の目に見える影響はほとんどない。(もちろん目に見えない精神的な影響はある)東京に来て、被災地に少し近づいて、震災が多少身近なものになった。それほどテレビや新聞、インターネットを見ているだけではリアリティーがなかった。

関東のみんなは元気そうでよかった。しかし、親族•友人も何人かは関西へ引き返してくる。なにか大きく変わっていく。

何よりも東京にいて、ここから200〜300km離れた場所では、被災地があるということを常に意識した。関西にいてもけして忘れてはならない。常に意識をし続けなければ。

2011年5月15日日曜日

おと とし


春は田植えの季節である。田んぼには次々に水が入る。夜、月明かりが揺らめく田んぼは、まるで海のようだ。田んぼ道を行く車は、ヘッドライトが長く伸びまるで船だ。

また、田んぼに水が入るとカエルが夜な夜な大合唱をする。高校の頃までは、街灯もない田んぼの一本道をカエルの声を聞きながら家まで帰っていた。地元は1年中いろんな声や音が聞こえている。キジの声、虫の声、山の音、川の音、田んぼの音、水路の音‥‥京都に出てきてからあまりそういった音を聞いてない気がする。今も窓を開けているが、聞こえてくるのは雨の音だけである。(それはそれでいいのだが)

外の音がしない分、できた空白を音楽を聴いて必死に埋めているような気さえする。音楽はすばらしい。ないと生きていけないぐらい、毎日時間ができれば音楽を聴いているし、ライブでだってたくさんの快感を味わってきた。しかし、都市をでて、自然の音を意識したとき、自分の気持ちが急に安定していくのを感じる。イヤホンをしていることがもったいない。

これだけ都市にどっぷり使った生活をしながらも、やはり自分は都市に対してどこか否定的になってしまう。それは難しいことうんぬんもあるけれど、やはり自分が一番安心できる場所が都市ではないからだろう。

2011年5月10日火曜日

夕方


毎日書くと宣言しながら2日間もあいてしまった・・・・
さあ、気を取り直して。

昨日は久々に仕事が明るいうちに終わり、家まで歩いて帰った。
帰る間に空気は徐々に青みを帯び、西からのオレンジの光は
徐々に弱まり、やがて消えていった。

この夕方の時間が私は特別好きである。
テンションが上がるというようなものではなく、ものすごくセンチメンタルな気分になる。
あの夕方の空気は、感動と同時に各家庭の晩御飯の匂いや、遊んでいる子供を呼ぶ母親たちの声を私の記憶の奥の方から引っ張り出す。

こんなにもセンチメンタルになるのは一日が終わってしまう悲しさのようなものではないか。歳をとっていくうちに、行動する時間は伸びていき、太陽への名残惜しさは少なくなっているのに。夕陽を見ながら泣きそうになっている自分は、幼少の頃に戻っているのだろう。私は原風景の中をとぼとぼと歩きながら、家に帰った。




2011年5月7日土曜日

やたら広い喫茶店


今日は大学時代の後輩と山へ向かった。

だらだらと2時間ほどトレッキングをして、見晴らしのきく尾根で
コーヒーとパンを食べながらおしゃべり。
彼は3月末まで山形で生活していたため、災害後の現地の様子などを聞いた。
また、お互いの将来の夢や恋人の話などをぺちゃくちゃしていたら、あっという間に
1時間が経過していた。まるで、喫茶店やカフェで話す主婦や女の子のようである。

コーヒーを飲むためや、本を読むために山道を歩きお気に入りの場所を見つける。
誰を気にするわけでもなく、好きな格好で好きなだけくつろぐ。
これは何と贅沢なことか。お金もほとんどかからない。
幸いそんなことが好きな友人に囲まれ、一緒に楽しむことができる。
この遊びを覚えれば、どんな場所も喫茶店、図書館になり得る。
もっと言うならばトイレ、寝室、台所、バスルームになり得る。
それはあほらしいかもしれないが、本当に大切なことではないか?
すべてが完璧に整い、しかも清潔に保たれた状態でないと生活できないというのは、
生き物として弱い。

そんなことも話しながら、また2時間ほど山の中を歩き家に帰った。


2011年5月6日金曜日

まちくさ博士


昨日はGW最終日(そうじゃない人もたくさん)天気は快晴で、
京都の街は人人人。自転車で移動するにも苦労する。

そんな中、友人の展覧会を見に行った。
彼は自ら“まちくさ博士”と名乗り。街の中にある雑草に、本来の呼び名や学名ではなく、
生えている環境や状態からインスピレーションを得て名前をつけるという面白い
ワークショップを行っている。(まちくさワークショップ)
ワークショップだけにとどまらず、以前から街草図鑑という本を作ったり、名付けた草をトレーディングカードやバッヂしたりしていたのだが、それに加え今回は、"まちくさの歌""まちくさマン""まちくさ体操"と、ものすごい広がりを見せ、よりたくさんの人を、彼の作品に引き込んでいた。

彼の作品はモノと言うより、新しい視点の提案である。ワークショップに参加した人は、しばらくの間、草を見つければ名前をつい付けたくなってしまうだろう。それは毎日の通学や通勤を楽しくする。そして、様々な物事の中に楽しさを見いだせるようになったのなら、それは最高に幸せなことではないだろうか?この提案はアーティストにとって重要な仕事のひとつだと感じた。

まちくさHP

まちくさ日記

2011年5月4日水曜日

火の前、陽の中



GWも後半になった。

昨日は、仲間10名程で山で焚き火をした。
仲間と言ってもそれぞれ初対面か2回目に会うという人がほとんどである。
火は不思議だ。はじめは緊張していた空気が、寒さを凌ぐために
肩を寄せ合い火にあたっていると、だんだんと和らぎ、
最終的にはずっと前から友達だったような気さえしてくる。
火を囲むという原始的な行為は、今も人々の心を捉えて離さない。
みな火を見ながら、ついつい深いところまで話は進んでいく。

一夜明けた今日は、家具職人の友人と久々に会った。
彼は昨年大きなけがをしてしまい、今後、今の仕事を続けられることは
できないという。ほんの一瞬の出来事が、彼の人生を180度変えた。
彼は「けがをして良かった点もたくさんある」と言う。
ゆっくりと考える時間が持てたこと。恋人と過ごす時間がもてたこと‥‥etc
日常生活にも支障をきたすような大きなけがをしながら、彼は陰ではなく陽を見る。
「なぜ自分が」と怨嗟しても、起こった事実は変わらない。そう口にしたところで
世界はより曇って見えるだけである。彼は世界がどのように見えるかは、自分
次第ということを感覚的に心得ている。
ちょうど午後の陽が喫茶店に差し込む中で、目にうっすらと涙を浮かべながら
話す彼が崇高に見えた。

2011年5月2日月曜日

東海ツアー


GW前半を使って愛知、岐阜へ

岐阜出身の私にとっては、東海地方というのはすべてのベースになっている土地である。
どんな場所に行っても、必ず比較対象になる。
今回はまず、家族に会ってから、他の地域出身で、現在東海地方に住む友人二人に
会いに行った。ここで育ち、出て行った私とは逆の視点を持った友人である。

名古屋在住の友人を車で拾い、岐阜県の多治見という陶器の産地に行く。
大学時代陶芸の勉強をしていたため、多治見には沢山の友人が住み、制作に励んでいる。
友人の言葉を借りれば、「陶芸的視点で地図をみれば、多治見は東京」だそうである。

友人達とこの土地を周って感じたことは、視点によってそれぞれ感じること、
見えているものは全く違うということである。
当たり前のことなのだが、人と話をしないと、ついつい自分の視点が一般的だと思ってしまう。
陶芸の街にすみ、日々様々な陶芸家と接する友人、今まで陶芸に興味を持ったことのない友人、京都の芸術大学に勤め、客観的に陶芸界を見ている自分。一つ一つの事柄にみんなで意見を出し合うと、物事はより立体的になってくる。

自分の生まれ育った土地のまた違った一面を見れた気がする。



2011年4月28日木曜日

身体を移動させること


4月は動いた。
時間のある週末は山へ。
また、大阪、石川、神戸へとあこがれの方々に会いに行った。

お金もない時間もない中で、無理をしてでも、身体を移動させて行く。
自分にとっての最高の快感はこれに尽きる。

たった2時間の講演のために、片道5時間もかけて、
まだ雪深い白山麓までいく。そんな自分をあほだなと思いつつ好きなのだ。
あらゆることが土地とともに身体に記憶される。

今月で印象深かったのは石川で震災についての講演を聴き、翌日に神戸へ
足を運んだことである。この土地でも16年前に震災があったことが
信じられないぐらい神戸は大都会なのだ。

一つの土地に根を下ろしいきていくという生き方に憧れる。
そんな土地がないことが(生まれ育った土地でさえも)コンプレックスだった。
しかし、ここ1、2年で諦めがついてきた。1つの土地で生きるということは
おそらく自分の性分ではない。常によそ者で、その土地を俯瞰して見るという
スタンスが自分にはあっているのだろう。
そのことは住むという行為だけではない。私は気が多く、1つのことを
とことん突き詰めるというのができないのだ。何事も広く浅い。
そんな私に、ある方が毎日BLOGを書きなさいと言ってくれた。
毎日が名文でなくてもいい。ただ毎日書き続けるという行為が説得力を
うみ、人を巻き込んでいくのだと。正直自信はないが、やってみようと思う。
これは、気が多い人間のコンプレックス克服にもなるだろう。

そんなことを書きつつ、明日からまた移動をするため、さっそくBLOGは
お休みする。なんじゃそりゃ

2011年4月10日日曜日

ひねもすのたり のたりかな

久しぶりに一人で山に向かう。

登山道からはずれ、川沿いに谷を登っていく。
不安定な足下を確かめながら、ゆっくりと進み、
開けた場所で、コーヒーとタバコで一服。
鹿がこちらをじっと見つめている。
猿の群れが、川を横切っていく。
しっているけどしらんふり。ぼーっと川の音を聞いている。

尾根にでて、登山道で下山する。
老若男女たくさんの登山者とあいさつをかわす。

みんなでてきてるな‥‥春だな。





2011年4月2日土曜日

ぼくらのコンパス

震災から3週間が経った。

観測史上最大の地震により20世紀文明はことごとく壊滅した。というよりも地震で20世紀文明とは何だったのかが明確になった気がする。そしてとどめに福島の原発事故である。

しかし、その中で、現地の避難所などではお年寄りが力を発揮し、声を掛け合ったりしているようである。テレビの画面で何もなくなってしまった自宅前で、笑いながら「もう一度やりなおそう」というおばあちゃんが映っていた。
今回被災した地域は、雪かきや季節風など人が生きていく上でどうしても自然と向き合わなければいけない土地である。昔からその土地に生きてきた人々は、自然をコントロールするのではなく、自分もその中の一部であるという自覚(感覚かもしれない)を持って、様々な知恵を生み出してきた。そういった知恵や精神は壊滅どころか、震災によってより力を増している。
ぼくの好きな作家の言葉に「文明とは、その土地の自己表現である」というようなものがある。人からの視点ではなく、土地からの視点である。こう考えたときに、日本の風習、芸能、祭り、宗教、生活に至るまですべてに納得がいく。これだけ自然に恵まれ、その分災害も多かったこの国では、物事は常に"うつりかわる"ということがそべての基本になっている。他力本願の考えなどもそうだろう。
戦後、日本は欧米を手本に発展してきた。その過程であちらの価値観や精神に合わせていく必要性が出てきたし、その中で育った僕らの世代にはいつの間にかそういったものが擦り込まれている。しかし、今回の震災で明らかになったことは、やはり日本にはその価値観は当てはまらないということ。人間が中心で、すべてをコントロールすることなど不可能なのだ。なら、私たちはこの震災後どのような社会を選択していくのか。自然に任せるように、政治家に任せるのか?矛盾しているようだが、今は自分たちで判断し選択しなければならない。いろんな立場から意見を出し合い、話し合っていかなければならない。
ぼくらはどちらに向かっていくべきなのかを。

現地では今も燃料や医療品、人手など様々なものが足りていない。二次災害で亡くなられる方も後を絶たない。被災をしていない人間たちは、自分の持ちうる力で最大限できることをしてゆこう。


2011年3月11日金曜日

映像の中で

東北が関東が、太平洋側の広い範囲が大変なことになっている。

映画でしか見たことないような映像がテレビやネットの中で流れている。
仙台の津波や気仙沼の火事、その映像の中に何百人(何千人かも)が取り残されており。
また、津波のあった海岸沿いでは何百人という死体が発見されているようだ。

まだまだ被害は拡大するだろうし、被災者の状況が正確にわかるのはもっと後になってからだろう。被災地の気温が明日の朝氷点下になるのも心配である。

同じ日本に住んでいながら、今いる京都では、テレビからなどの情報を除けば、いつもと何も変わらない日常である。しかし、800Km程北に進めば映像の世界が広がっている。隣の国で戦争が起こりそうでも、他人事のように感じてしまう日本人でも、このリアリティーは感じているはずである。

自分にはなにができるだろう。祈ることしかできないのか。目と鼻の先で、自分の行ったことのある土地で、たくさんの人が被災している。何よりも大切なのは行動である。日本人は本来、結いという習慣があったようにみんなで支え合いながら生きてきた。どれだけアメリカナイズされたとしても、その風習はなくなっていないはずである。たくさんの人々が行動をおこしてほしい。日本の本当の良さが出てほしい。

↑この中学生のおかげで、テレビがない私も被害状況を把握できた。

2011年3月2日水曜日

山の国



生まれ育った岐阜県は山と川の国である
人々は日々山と川を意識して生活している。

ある雑誌の記事で興味をもったライター/イラストレーターの方がBLOGで
山の奥深くにある、混沌としたもののなかから「自然の秘密」を掴み出すことはできないだろうか。「自然の秘密」を「境界」へと掴み出したとき、それは「境界」から湧き立つ霧のように、言葉となり、絵となる。あるいは写真となり、詩となり、歌となり、物語となるのだと思う。「自然の秘密」=「素材」。「境界」を「生まれる場所」とするならば「山」は(「素材」を)「生む場所」と言えるかもしれない。」
ということを書かれていて、同じように山をテーマに制作活動をしている人間として、とても共感した。意識をしだすと、手に取る雑誌のほとんどに彼の絵や文章が載っており、偶然にも彼とは同郷であった。これは一度会いたいなとコンタクトをとってみると、現在、山の中に自分一人で小屋を建てているところであり、その小屋も見せてくれるという。実家に帰ったタイミングで会いに行った。

迎えてくれた彼は、文章や絵から想像していた通りの穏やかそうな人で、建設中の小屋を案内してもらった後、同じ敷地内でお姉さん夫妻がやっているパン屋兼喫茶店に招いてくれた。実際話をしてみると、話題が尽きず、お互いに細かい説明をせずとも話が通じた。人と話をしてこんな感覚になったのは久しぶりである。同じような人物、土地、歴史、風習、芸術などに興味を持っていて、同郷にこんな人がいたのかと興奮しっぱなしの自分がいた。

その中でも岐阜出身の芸術家や小説家、音楽家などの作品にみられる共通性の話が面白かった。あまり派手ではないけれども、自然のリズムに寄り添うような空気感が作品に出ているという感想をお互いが持っており、それは少し控えめであり、同じように山で有名なお隣長野県とはまた違うのだ。彼の文章や絵にもまた私は同じものを感じる。はたして私の作品はどうか?

彼は絵と文章で生活をしている。私はまだ、今後どのように生活していこうかと考えている段階である。自分とあまり年齢も変わらない彼の存在はとても刺激的で、とても参考になった。
こうやってたくさんの人と繋がりながらゆっくりでいいから生き方を模索してゆこう。
生まれ育った土地で育んだ感覚を大切にしながら。

成瀬 洋平 papersky blog
http://www.papersky.jp/category/mountain/

2011年2月27日日曜日

コツのいる家


我が家はコツのいる家である。

具体的に言うならば、
•トイレの水は、絶妙なタイミングとスピードで
レバーを動かさなければ、止まってくれない。
•ベランダに通じるガラス窓は、精一杯の力で押さえながらでないと鍵が
閉まらない。
•玄関の扉もまた、鍵の閉まるポイントがなかなか見つからない。
•台所の給湯器は、レバーを一度右に回しきらなければお湯は出てこない。
•洗面所は、赤色のお湯の方からしか水が出ず、なおかつお湯は出ない。
などなど他にもたくさんのコツがいるのである。

はじめは焦っていたが、ああでもないこうでもないと試行錯誤し、
コツをつかんでしまった今は、当たり前のように各作業をこなす。
しかし、人が泊まりにきた時は説明が大変である。

ただ何でもマニュアルが用意されて、細かく数字で表記されている
現代において、このあんばいというのは非常に大切なことのように思う。

昔、風呂を薪で焚いていた頃、それはほとんど子供の仕事だったようだ。
子供は、毎日その仕事をこなす中で、湿度や風、温度などにより薪の量や
息の量を調整していくことを覚える。これは誰に教えられるわけでもなく
自分で体感し、考えた末に拾得したあんばいなのだ。
本来自然は諸行無常である。
状況に合わせて動物や植物は少しずつやり方を変えていく。
スイッチ一つで何でもできることは便利だが。私たちの身体はどんどん
生活(生きるために必要不可欠な活動)から離れているのではないか。

またそれは人間が自然から離れていくことでもある。

2011年2月1日火曜日

歩く


歩くことが好きである。
家から職場までは毎日歩いているし、
休日の外出時でも歩ける距離であればなるべく歩く。

一度京都から実家のある岐阜まで、3日間かけて歩いて帰る計画を
立てたが、60キロ歩いた時点で、足を痛めてしまった。
アスファルトは山のようにはいかない。

私はよく歩くのが早いと言われる。
それは自分でも自覚があったし、「特技は?」と聞かれれば
早く歩くことと答えてもいいぐらい自信がある。
しかし、最近読んだ雑誌の記事の中で、白神山地のマタギの方
の言葉でこのようなものがあった。

「ところで都会の人は非常に足が速いんですね。今日も飛行機を
降りて、空港の通路を歩いて来る時、どんどん追い越されました。
以前、東京へ行った時も駅のホームで同じことを感じましたが、
あれで田舎の人と都会の人が見分けられますね。でもこういう都会の
人たちが山へ来ると、全然歩けないんです。」

マタギといえば山歩きのプロである。私はてっきり強靭な脚力で、
ものすごいスピードで山を歩いているものだと思っていた。
しかし、予想に反して小股を意識して歩くそうである。
登山などをしていると、地図に書いてある平均の所要時間よりも
いかに自分が早く目的地まで到達できたのかを、つい意識してしまう。
もちろんマタギと登山では目的自体が違う。マタギのかたも
「山では時速より、何時間歩いたか。」
とおしゃっていた。ここでいう山は狩り場という意味だろう。

とはいえ、確かに早く歩くことで、見逃しているものが多々ある。
自動車より自転車、自転車より歩きと進むスピードが遅くなれば
遅くなるほど、私たちはたくさんの気づきを得る。
歩くスピードでも景色は変わるだろう。

もう少しゆっくり歩いてみよう。


2011年1月28日金曜日

はじめに


どうも、川上と申します。

KALIPEとはチベットの言葉で“どんな時も静かな足取りで”という意味です。

私は、これから自分自身がどこでどのように生きていくのか、現時点ではまったく
見当がつきません。このブログを続ける間に、様々な土地を移動しながら暮らす
ことになるかもしれません。関わりのある人もどんどん変わっていくでしょう。
先の見えない不安の中にもワクワクするこの毎日の中で、感動したこと、考えた
ことを少しずつ言葉として起こし、残しておくためにこのブログを始めたいと思
います。

私的な内容ですが、読んでいただけたら幸いです。

※写真はネパールの馬のキャラバン