2013年4月16日火曜日

サンティアゴ・デ・コンポステ-ラ→ビルバオ




2013年4月16日 サンティアゴ・デ・コンポステ-ラ→ビルバオ


リスボンから再度スペインへ入国し、サンティアゴ・デ・コンポステ-ラという街に到着。ここはエルサレム、バチカンに並びキリスト教三大聖地のひとつだ。フランス、スペイン、ポルトガルからたくさんの道がこの街に続いており、その道を巡礼者たちが歩いてやってくる。街の中はバックパックを背負った人で溢れかえり、旅の終りを皆でたたえ合い握手や包容をしている。きっと巡礼の中で何度も顔を合わせ励まし合ってきたのだろう。街の中心にそびえ立つカテドラルでミサに参加したが、歩いてこの街に来たわけではない自分は少々浮いてしまった。宿にいるのもほとんどが巡礼者で、他の街のホステルとは違いかなり落ち着いた雰囲気である。今回の旅の中で僕もこの巡礼路を歩こうと考えていたのだが、時間の問題(ツェルゲン協定)で見送ることにした。また年を重ねてからじっくり歩こうと思う。

聖地を後にして、バスク地方の中心都市ビルバオへ。このバスク州、そしてサンティアゴ・デ・コンポステ-ラのあるガリシア州、次に向かうバルセロナのあるカタルーニャ州はどこも自治権を持っている。州の公用言語もスペイン語とそれぞれ独自の言葉になっているほどだ。今までの旅の中でこの3つの土地出身者は誰ひとりとして自分をスペイン人とは言わなかったし、スペイン語も話していなかった。また、バスクに関しては、一見スペイン人や他のヨーロッパ人と同じような顔をしているが、血液を調べるとかなり特殊な人達らしい。が故に過去にはテロ行為も辞さない独立運動を行ったりとかなり民族意識が強いエリアだ。
ちょうど着いたのが日曜日だったため、もしタイミングが合えばヨーロッパで心残りだったサッカー観戦をしようと、宿のスタッフに「今日アスレティック・ビルバオのホームゲームはあるかな?」と聞いてみると、パソコンで調べてくれた。「ワォ!あなたラッキーよ!今日はホームでレアル・マドリード戦があるわ!」棚からぼた餅である。早速スタジアムにチケットを買いに行くと、一番安いゴール裏の席でも50€もした。どうやらレアル戦なのでいつもよりかなり高いらしい。まあしょうがないということでこのチケットを購入し、夜再度スタジアムに向かった。このアスレティック・ビルバオは特殊なチームで、バスク地方出身の選手しかいない。(正確にいいうと2代前までバスクにいたというのでもいいらしい。つまりはバスク人)バスク地方は人口も大きさもほぼ茨城県と一緒である。しかもリーガエスパニョーラ(1部)には2部に落ちたことがないチームは3チームしかなく、それがバルセロナ、レアル・マドリード、ビルバオなのである。茨城選抜でずっとJ1で戦っていると思えばいいだろうか?いやそんなレベルではない。このチームはバスクの人々の象徴なのだ。ファンが熱いのも納得である。ゴール裏という一番熱いファンのいるエリアでの観戦だったが、ビルバオの応援をしている分には安全だった。しかし、横に座っていた人が隠れレアルファンだったようで、レアルのゴール時に大きなガッツポーズをしてしまった。これをビルバオファンは見逃さない。まず全員に中指を突き立てられ、レアルがファウルをするたびに罵られていた。彼も耐えられなかったのかどこかにいってしまった。他の場所では乱闘騒ぎもあり、レアルファンのおじさんが足を引きずりながら警備委員に連れていかれた。レアルマドリードはスペインの首都のチームであり、スペインの象徴のようなものだ。ビルバオファンが熱くなるのもしょうがない。結局レアルが3-0で勝利したのだが、ヨーロッパにおけるサッカーは、様々な人、民族、国の人生?を抱え込んでいるのだなとしみじみ思った。

それにしてもビルバオは本当に良い街である。周りは山に囲まれ中心には川が流れている。まるで京都だ。日が落ちるのが遅いせいか、人々はインラインスケートやスケートボード、自転車、ランニングと各々の方法でスポーツを毎日楽しんでいる。また、散歩している犬の種類の豊富さもツボである。こちらは基本ノーリードなのだが、道に飛び出したり、人に吠えかかる犬はいない。みなきちんとしつけられている。ロンドンの記事でも書いたが、自由と責任の関係をしっかりとみな理解しているように感じた。この旅の中で様々な都市を訪れたが、1番住んでみたいと思う街だった。
               

2013年4月12日金曜日

リスボン→モンサント→ポルト




2013年4月12日 リスボン→モンサント→ポルト


今回の旅29カ国目ポルトガルに入国。ポルトガルに関してはなぜか親しみがある。僕は小学生の頃からサッカークラブに所属していたが、当時のコーチが練習や試合で使う数字を全てポルトガル語で言うことにはまっていた。当然僕たちも1~10までの数字を覚えさせられる。これが意識的に覚えた初めての外国語かもしれない。おかげで僕は英語の全く通じないこの国で数字だけはちゃんと理解することができる。17年越しにコーチに感謝である。

まずはポルトガルの首都リスボンへ。夜遅く宿に着いた僕に宿のスタッフの一言目は、「ようこそ!疲れただろ?お腹減ってないか?スープがあるけどいるかい?」だった。チェックインよりも先にまずあったかいスープ。こんなホステルはなかなかない。いや初めてだ
。しかも彼だけでなくこのホステルのスタッフはみな親切でいつも英語の話せない僕に気を使ってくれていた。ホステルの居心地の良さはその街の印象にも大きく影響する。また、この宿では日本の大学に7年通っているという韓国人の女性とも会った。教育社会学を専攻している彼女と西洋と東洋の差異、日本人男性の特殊性、今後の東アジアに関してなどたくさんの話をした。リスボンはトータルで2日もいなかったが、ホステルと彼女のおかげでかなり充実した滞在になった。

リスボンから丸々1日の移動の末モンサントという田舎町に移動してきた。町というよりは村である。この村は岩山の先にへばりつくように存在している。そして面白いのは岩に寄生するように家が作られているのである。18時頃、まだ外はかなり明るいが村にはほぼ人は見当たらない。みな家の中に入ってしまったのだろう。山の頂上には城壁(これもまた半分は天然の岩だ)が残っており、そこに登ってみる。周りは360度の大パノラマである。イベリア半島が全て見えているのではないかとさえ思う。本当に久しぶりに全身で興奮しているのがわかる。移動の連続で疲れているにも関わらず、全く疲れを感じない。まさにナチュラルハイの状態である。たった一人で岩山の上に2時間以上いただろうか。ヨーロッパに関して思いを巡らす。木の文化の日本に対してヨーロッパは石の文化である。この村はまさにほとんど石でできており、まさにヨーロッパの原型と言ってもいいのではないか。すぐに建てられる木の家に対して石の家はその何倍も時間がかかる。それひとつとっても時間の捉え方や、生活の仕方などが日本人と全く違うことがわかる。後は牧畜と麦というキーワードだろうか。米の栽培には平地が必要だが、麦は丘などでも畑を作ることが出来る。また、残った土地は全て家畜のための牧草地に変えることが出来る。そうやってあまり木の生えていないヨーロッパの景色が出来上がったのだろう。かつてここから見えるすべての土地が森に覆われていた頃は一体どんな世界だったのだろうか。

モンサントを出るバスはなんと早朝7:15に1本だけらしい。結局この村に滞在できたのはたった13時間だった。宿代が安ければもう少し滞在したかったのだが・・・またバスに揺られポルトガル第2の都市ポルトへ。ポートワインで有名なこの街にはたくさんのワイン蔵があり、いたるところで試飲をすることが出来る。レストランやカフェでもワインはめちゃくちゃ安い。酔っ払いながら街をうろつく。建物の壁面には色とりどりのタイルが貼られており、それを見ているだけで楽しい。陶芸に関わる人にはおすすめしたい街である。

2013年4月7日日曜日

フェズ→シャウエン→タンジェ→タリファ→セビーリャ




2013年4月7日 フェズ→シャウエン→タンジェ→タリファ→セビーリャ


メルズーガから夜行バスで再度アトラス山脈を超える。朝方フェズという街に到着。当初この街にも数日滞在する予定だったが、砂漠の居心地の良さについつい長居してしまったので今回は経由するだけにする。バスを乗り換えシャウエンという街を目指す。バスからの車窓はどこまでも広がる緑の草原で、家畜も駱駝とヤギから牛や馬、羊に変わってくる。アトラス山脈を挟むだけで全く違う景色になるのだ。

ショウエンは山間部にあるさほど大きくない街だが、ここに世界中から旅人が集まるのはほとんどの建物が青色に塗られ、とても幻想的な景色を見せるからである。インドのジョードプルもブルーシティーだったが、あちらは砂漠、こちらは山間部なので光の加減でまた違った雰囲気がある。ショウエンに滞在した3日間はすべて雨だった。ホテルの部屋はかなりかび臭い。2日前まで洗濯物が30分で乾いてしまうような場所にいたのに今は3日経っても乾かない。そこら中水色の街で毎日水に打たれていると気分が落ちてくる。(とても綺麗なのだが)

ショウエンを後にし、港街タンジェへ。そこから船に乗りジブラルタル海峡を渡りスペインのタリファに向う。このタンジェとタリファ、そしてサハラ砂漠、エジプトのピラミッドは全てある物語の舞台になっている。パウロ・コレーリョ著『アルケミスト』かなり有名な本なので知っている人も多いと思う。スペインのアンダルシアにいた羊使いの少年の旅の物語だ。僕はこの本を16歳の頃従兄弟にもらった(以前ブログに書いたインドなどを放浪していた従兄弟)。当時はこの簡単な物語の何がいいのかさっぱり分からなかった。しかし、年を重ねるごとになぜか読み返したくなり既に10回は読んでいる。この本のすごいところは読み返すたび新たな発見をもたらしてくれるところだ。前回読んだ時は全く気づかなかったところに自分が引っかかったりする。今ではよくもまあこんな薄い本の中にこれだけの内容を詰め込んだものだなと感心している。物語の実際の舞台で読むのはまた格別である。興味がある人はぜひ読んでみて欲しい。スルメのような本である。

タリファに着いたのは既に17時を超えていた。たった30分海峡を渡るだけで、時計が2時間も進む。どうしてもその日中にセビーリャに着きたかったので、すぐにバスに乗る。ずっと雨だった対岸のアフリカとは違いこちらはからっとした天気である。港で話したスイス人のおじさんの話では年間を通して気温差は10度ぐらいだという。「僕の育った街では一日で30度の気温差がある日もあるよ。まいったね」おじさんはそう呟いていた。このおじさん、現在はタリファに住んでいるのだが、かつて柔道留学で奈良県の天理に1年間住んでいたらしい。スペインの端っこの街で天理教に関して話をする。僕もかつて興味があって天理教のことを調べたり、実際奈良の天理まで行ったことがあった。まさかその経験がこんなところで活きてくるとは…不思議なものだ。

セビーリャに着いたのはもう日付が変わる頃だった。夜の街を歩くのはかなり危険だと思っていたが、街は人で溢れていた。インラインスケートをするおじちゃんやおばちゃんまでいる。日没が21時頃なのでみな寝るのが遅いのだろうか。この街のフラメンコはスペイン一情熱的だそうである。夜、宿のスタッフに勧めてもらった大衆酒場へ。初めて見るフラメンコは本当に力強く、会場の熱どんどん上がっていくのがわかる。演者の息遣いまではっきり聞こえるほどすべての客が息を飲んでステージを見つめていた。なんと贅沢な時間だっただろうか。しかし、僕はこの素晴らしいステージを1人で見ている。美味しいスペイン料理も1人で食べている。ここのところずっと誰かと共に行動していたので、久しぶりの1人は随分さみしい。

※最近の日記は起きたことを羅列するだけになっている…よくないな。

2013年4月1日月曜日

ティネリール→メルズーガ




2013年4月1日 ティネリール→メルズーガ


早朝マラケシュからバスに乗りアトラス山脈を超える。イギリス人の友人に「本当に美しいところだ」と聞いていたが、彼の言うとおり車窓からの景色に一時も目を離すことができなかった。谷を縫うようにバスは進んで行くのだが、その両側にへばりつくように村が存在し、谷沿いにだけ植物が生えている。標高が高いところにはまだ雪も残っており、岩、家、植物、雪のコントラストが絶妙だ。アトラスを超えてしまえば風景は一転して砂漠になる。どこまでも広がる砂と岩の大地。アトラスの向こう側にはアラビア人が多く住んでいるが、こちら側には砂漠の民ベルベル人が多く住んでいる。この乾燥した砂漠にも人が住んでいるのだ。まずはトドラ渓谷に向かうためにティネリールでバスを降りる。

トドラ渓谷では4日間滞在し、久しぶりにクライミングをしたり、ハマムという公衆浴場へ行った。ハマムではムキムキのおじさんにアカスリをしてもらったのだが、自分が消しゴムにでもなったのかと思うほど垢が出た。何よりもおじさんに優しい手つきで石鹸を体に塗られるという体験はなかなかできるものではない。最後は整体のようなこともやってくれるのだが、お互い裸のため肌と肌が密着しこれまたなんとも言えない気分である。

トドラを後にして、巨大な砂丘のあるメルズーガへ。人生4つめの砂漠〝サハラ″は、今まで見てきたそのどれもを凌駕している。日本人がイメージする砂漠そのものだ。昼間に少し散歩をしてみたが暑くてとても長時間いることはできなかった。イスラム世界は月の歴で、国々の国旗にも月や星がついているところが多い。それはこの砂漠の暑さも関係しているのではないか?日中はとても人が活動できる場所ではない。こちらでベルベル人が砂漠で使うコンパスを見せてもらったが、これも月と星の位置で自らの場所と進むべき方向を確認できるようになっていた。国旗に太陽を使用し日出国と言われるところから来た自分にとって夜は死の世界、向こう側の世界だが、こちらの人の夜の捉え方は違うものだろう。
砂丘の上で旅について考えてみる。旅を初めて7ヶ月が経ち、旅は完全に日常になっている。知らない街を歩いていても日本にいる時とあまり感覚が変わらない。たとえそれが砂漠の真ん中の街でも。「それでいいのだろうか」という思いを抱えながらここのところ旅をしてきた。人は良くも悪くも様々な状況に慣れてしまう。だからといってさほど興味もない場所に行ったりアクティビティーに参加しても虚しさが増すだけだろう。少しずつ変化していく砂丘を見ていると、ただその場所にいて、その土地の空気を吸うだけでよい気がしてきた。結局僕は悶々とした中で何か分かりやすい達成感や目に見える結果を求めていたのかもしれない。しかし旅で得るものは形があるものではない、人生を通して少しずつ意味を見出していけるものだろう。ずっと悶々と考え続けるしかない。それでいい。

メルズーガでは日本にいた時からの知り合いに偶然会った。世界は広いようで随分狭い。
その他にも京都の料理人や岐阜出身のミュージシャンにも会うことができ、久しぶりに何をするでもなく皆でご飯を食べたり、音楽を聴いたりして過ごす。こういった時間もまた素晴らしい。

2013年3月25日月曜日

ニース→アンティーブ→カサブランカ→マラケシュ




2013年3月25日 ニース→アンティーブ→カサブランカ→マラケシュ


旅を初めて半年が過ぎ、ずいぶん旅慣れしてきたなと自分で思っていたその矢先、ミスを犯してしまった。それはアイルランドの空港でのこと、飛行機に乗るのも何の緊張もしなくなっていたので、時間ギリギリにチェックインカウンターへ向い南仏ニース行のEチケットを提示する。するとカウンター内のおばさんがヨーロッパから出るチケットは持ってる?と質問してきた。まだその後のチケットを何も確保していなかったので、正直に「いいえ」と答えると、それではチェックインできないという。え?ツェルゲン協定内の国に入ってからはまだ1ヶ月半しか経っていないし、問題ないと思うと伝えるが、ダメの一点張りだ。するともっと上の責任者が出てきて「チケットを持っていなければフランスの入国が出来ない。ニースからユーロ外に出るチケットを今取れ」という。そんなやりとりをしているうちに搭乗の時間が迫ってきて、僕はテンパってしまう。アイルランドの空港はWIFIを使うことができたので、キャンセルすればいいやという思いでニース発モロッコ行きの適当なチケットを取った。その画面を見せてなんとかチェックインできたのだが、値段を再度確認してみるとなかなかの値段のものを取ってしまっていた・・・。嫌な予感はしたがとりあえずニースに到着。しかし、入国審査で航空券の提示など全く求められなかった。「なんやねん!」と思いながら、すぐにチケットキャンセルをしようとするが、このチケットは払い戻しできないという・・・・なんということだ。当初はニースからスペイン、ポルトガルとバスで移動し船でモロッコに入る予定にしていたが、こうなればしょうがない予定を変更することにした。これは僕の英語力の無さがまねいたものでもある。何よりもあそこでテンパった自分に腹が立つ。

南仏ニースはアイルランドからきた旅人にはびっくりするほど暖かかった。街にはもう半袖で歩いている人さえいる。そのニースから電車で20分の街アンティーブに大学の後輩が留学しており彼と駅で待ち合わせをして、街を案内してもらう。同じヨーロッパでも北と南では随分と雰囲気が違うものである。何よりも光が違う。そのせいか人々の表情も陽気に見える。また魚介類の多さも魚を食う国民にはたまらない。北ヨーロッパでは街角で美味しそうなものにあまり出会わなかったが、こちらではついつい足を止めてしまう。もうひとつ面白かったのは、たくさんの人がバゲットをリュックに挿したり、手に持って歩いているのだ。絵に描いたようなフランスの光景。この街に滞在した4日間僕も真似をして常にバゲットを持ち歩いて行動をした。とにかく安いので、貧乏旅行者には強い味方である。
後輩は日本にいた時よりも生き生きとしていた。言葉もだいぶ上達しており、たくさんのフランス人の友人もいるようだ。そんな彼に僕は感心しきりだった。彼のフランス行きを聞いたとき大丈夫だろうかと心配したが、大切なのは新しい環境に飛び込む勇気であり、後はその環境が人を成長させるのだろう。次に日本で会う時が楽しみである。

ニースを後にした僕は、まだだいぶ先に行く予定だったモロッコに飛んだ。カサブランカの空港に夜中に着き、1泊したあと本日の朝マラケシュという街まで移動してきた。大量の排気ガスや砂埃、鳴り響くクラクション、鬱陶しい客引き、街中のゴミ、野良犬。「ああ、帰ってきた。」2ヶ月間のヨーロッパ旅行で忘れていたこの感覚。結果的にこのタイミングでモロッコに来てよかったかもしれない。チケットのミスも旅が日常化しすぎて気が緩んでいたのだ。モロッコは緊張感を取り戻すにはちょうどよい。そういうことにしておこう。

2013年3月20日水曜日

ダブリン→ゴールウェイ




2013年3月20日 ダブリン→ゴールウェイ


ロンドンからダブリンへの移動の前日は空港に一泊することになった。インドの駅での野宿とは比較にならないほどきれいだが、彼女には過酷だったようである。申し訳ない・・・ちょうど良いベンチを見つけ荷物を抱えながら寝る。自分たちしか寝てなかったベンチの周りには、目を覚ますと同じように空港で夜を明かした人達がたくさん寝ていた。似た者同士肩を寄せ合い安全を確保するのだ。人もやはり動物なのだなと思う。

そんなこんなでダブリンの空港に降り立つ。あまり寝ることもできなかったのでふたりともフラフラなのだが、この日はアイルランド最大のお祭り聖パトリック祭だったため、身体に鞭打ち街へ。しかし行ってよかった。街も人も緑色一色で、その中をパレードが練り歩く。出遅れてしまった僕たちはパレードを見るのにも一苦労だ。街中が熱気に満ち、あまりのテンションについていけなくなったのですごすごと宿へ。この祭りのためにダブリンのホステルはどこも満室で、どうしても郊外の高いホテル(といっても日本のビジネスホテル程度)に泊まることにしたのだが、なんとここが4ツ星のホテルらしく、バスタブまで付いていた。日本人にはやはりこれが必要だ。

そして、バスで島の反対側ゴールウェイへ。この街は州都であるがさほど大きくはなく、静かで落ち着いた港街だ。着いて2日目はバレン高原とモハーの断崖を見に行くツアーに参加した。イギリス同様どこまでも牧草地が続くアイルランドだが、整理された印象を受けるイギリスに対してアイルランドは荒々しくワイルドな印象を持つ。土地自体の個性がこちらのほうが強く、コントロールしきれないといった感じ。それは両国の人にも言える事かもしれない。半年旅をして様々な土地を見てきたが、ここの風景はネパールのヒマラヤと並び、大きく心が動いた場所だった。それはなかなか言葉にできるものではないが、壮大で荒々しい中に凛とした静けさが漂っている。時間的にも空間的にも自分の存在が消えてしまうのではないかと感じる瞬間があるのだ。モハーの断崖の上から北の海を見る。この先にあるのは憧れの地アイスランド。今回の旅の1つの目的でもあったアイスランドだが、時期と予算の問題で見送ることにした。まだ、憧れのままでいてもらおう。いつかじっくりと時間をかけて回りたいと思っている。
夜は連日アイリッシュパブへ。ホテルのスタッフが教えてくれたパブは、観光地から離れた場所にあり、地元の人々でいっぱいだった。楽器を持ったローカルのミュージシャンが少しずつ店に集まり、いつの間にかライブが始まっている。ギネスビールを飲みながら聞く本場のアイリッシュミュージックは最高としか言い様のないものだった。

ここで1ヶ月共に旅をしてきた彼女とはお別れである。ゴールウェイからのバスがかなり遅れたため、別れを惜しむ暇もなくあっという間にデンマークに帰っていった。それぐらいがちょうどいいのだろう。また1人の旅の始まりである。さあ、少しずつ暖かい場所へ。

2013年3月16日土曜日

ロンドン→ソールズベリ




2013年3月16日 ロンドン→ソールズベリ


主が仕事に行った後の部屋でゆっくりと目を覚ます。大きなキッチンで朝昼兼用のご飯を作り、良質のスピーカーで音楽を聴きながら食べる。庭に遊びに来たリスや小鳥を観察する。時に狐も来るらしい。ロンドンに滞在した6日間は毎日こうして始まった。友人の家はロンドンの郊外のアパートの1階にある。夫婦やカップルが2人で住むにはちょうどいいサイズの家。ヨーロッパに入ってから忙しなく移動を続けてきたので、ロンドンでのこの時間は本当に貴重なものだった。

1年前、僕が京都を去るということで友人が開いてくれたパーティーに当時日本に滞在していたイギリス人の彼とスウェーデン人の彼女も来てくれた。その際に次はロンドンで会おうと約束をしていたのだ。その後僕は旅に出て、2人もロンドンで新しい生活を始めていた。悪名高いイギリスの入国審査を無事通過し疲れ果てて家にたどり着いた僕たちを、彼らは精一杯もてなしてくれた。そのお礼に僕たちも晩御飯(日本料理)を作って彼らが仕事から帰るのを待ち、毎日遅くまでお酒を飲みながらたくさんの話をした。京都時代の思い出話や共通の友人の近況、、音楽の話、またはイギリス、スウェーデン、日本の比較など話は尽きない。元々気心の知れた友人と話すのは旅の中で知り合った人と話をするのとはまた別の面白さがある。ちなみに彼は少し日本語を話し、彼女に至っては流暢な関西弁をしゃべる。次はまた日本で会おうと最後に約束をして彼らの家を後にした。彼らが日本に来たとき僕も精一杯のおもてなしをしたい。

ロンドン滞在中は友人の務める会社(Google)にもおじゃました。というのもGoogleの社員食堂でビュッフェを食べさせてくれるというのだ。もちろんタダ。僕たちはゲストという名札をもらい社内に入る。食堂には世界各国の料理が並んでいた。その他にも各種チーズ、ケーキ、飲み物、果物、お菓子全て無料である。社員はここで朝昼晩と食事を取ることができ、金曜は夜お酒までタダで飲むことができるのだ。それだけではない、車内には図書館や音楽ルーム、ゲームルーム、リラックスルームと社員がくつろげるスペースがたくさんあったり、インテリアもロンドンバスが社内にあるなど遊び心に溢れている。友人曰く「パソコンとにらめっこする仕事はしんどいからね、体を動かしたり、リラックスしないといいパフォーマンスができないんだよ。もちろんいいアイデアも出ない。」うーんさすがGoogle。それでは怠ける人間が続出するのではないかと日本人の僕は思うのだが、そんなことはない。社員はみなここまで完璧な仕事環境と提供してくれるグーグルのために一生懸命働いているし、結果がでなければ自分の居場所がなくなるだけだ。一見優しいように見えて実は厳しいヨーロッパに対し、一見厳しいように見えて実は優しいのが日本なのだろう。日本はルールを設けることによって、人々を律しようとするが、いざという時は情を大切にし、冷酷なことはしない(最近はそうでもないのだろうが)どちらがいいというわけでもないが、僕が生きていく中でとても大切だと思うのは、選択の自由とそれに伴う責任である。そう言った意味でヨーロッパの人々は自立しており、みなそれを前提に生きているように感じる。日本では子供たちの一番身近な大人(親や先生、もしくはテレビの中の政治家)が責任を持つことを恐れ、擦り付け合っているような事もしばしばだ。そんな環境では子供もずる賢くなるだけではないだろうか。どこか読んだ本のセリフに「責任のない自由なんてありえないわ」というのがあったことを思い出した。

イギリスではその他にも、ストーンヘッジを見学するためソールズベリという田舎町にも滞在した。絵に描いたようなイギリスのカントリーサイドは静かでとても落ち着いている。さあ次はアイルランドへ。