2013年9月21日土曜日

東京→岐阜



2013年9月21日 東京→岐阜

飛行機から一歩出ると、多分の湿度を含んだ重い夏の空気が体にまとわりついてきた。もう夏の終わりが近づいているとはいえ、例年にない猛暑(毎年そう言われている気もするが)の名残か、はたまた先日までいたアラスカとのギャップか「めちゃくちゃ暑い」というのが日本に到着して最初の感想だった。慌てて着ていたフリースを脱ぐ。入国審査、税関を抜け到着ゲートを潜ると友人夫妻が「だいちゃんおかえり」と書かれた即席のTシャツを降って出迎えてくれた。うれしさと恥ずかしさで何とも中途半端なリアクションになってしまい申し訳なくなる。そこから一週間程は東京に住む友人たちと再会を喜び大いに飲んだ。中には中部や関西からわざわざ来てくれた後輩もいて、嬉しい反面これまた申し訳なくなる。東京の街は今まで回ってきたどこの街よりも大きく、人も多い。目につく文字の意味を全て理解できるためか、やたら看板などの広告が多い気がする。それと同じ理由で様々な人工音が犇めき重なり合い、音と音の隙間が全くない。中国やインド、メキシコなど同じ様に人口の多い都市ではどこも雑然として騒がしいのだが、そのどれもがその国の特徴を持っていて全く違うのは面白い。
高速バスで実家のある岐阜に向かう。都心から離れるにつれ車窓からの景色は日本独特の植生を持った山々に変わっていく。休憩で立ち寄ったサービスエリアでは土の匂いが鼻をかすめ、ここでやっと自分の慣れ親しんだ日本に帰ってきたという実感を得る事ができた。台風一過の晴天の中、久しぶりに見る富士山は相変わらず美しい稜線を描いてそびえ立っていた。

そんなこんなで無事実家にたどり着き、もう幾日が過ぎた。夜ベランダでタバコを吸っていると、頭に大きなスピーカーを乗せた消防団の車が「外出の際、就寝の際はしっかり施錠をしましょう」というある意味とても平和な放送を流しながら通り過ぎていった。また、ボサボサの髪と髭を切りに床屋にいくと、小学生の頃から皆同じ床屋に通っているので、店主との世間話の中で同級生の近況は全て分かってしまった。街灯のない田んぼ道を歩けば、聞こえるのは虫とカエルと鳥の声、刈り取りを待つ稲の匂いが立ちこめる。僕はそういう土地で育った。
旅を初めて2週間目の日記に「全ての驚きや感動は日本に、いや生まれ育った岐阜にあったのかもしれない」と書いていた。旅の中で本当に素晴らしい景色や貴重な体験をたくさんしたが、結局自分の価値観がひっくり返ってしまうようなことはなかった。それよりも小さい時に見たあの景色に似ているなというような感想をよく持ったのである。もちろんスケールの大小はかなりある。しかし、小学校の帰り道で水たまりに写った空や、中学生の時毎日泳いだ川の流れの中に僕はこの世の中の核と繋がり合えるような瞬間をしっかり捉えていたのだと思う。高校を卒業後実家を出た時から、外に出れば出る程どうしようもなく岐阜という土地で育った自分という存在が大きくなってくるのである。僕が今後岐阜に住むのかは今のところ分からないが、この土地が僕にとっての聖地であることは一生変わらないだろう。しかし、これは外に出たからこそ分かった事である。僕はそうしなければその事に気づけなかった。そう考えるとしっかりとこの地に足をつけ、結婚をし子を育てている地元の友人達がとてもかっこ良く見えてくるのだ。

もうひとつ、今回の旅を通して自分を取り巻く空間と時間の密度がぐっと増した様な感覚がある。具体的には自分の身体を使い実際に移動をした事で世界は今までよりずっと狭くなり、中国や朝鮮半島、台湾などは近所の様に感じるし、生まれる前は大昔のような感覚で生きていたのに、世界の様々な歴史に触れる中で、100年前ならつい最近の事の様に感じる。これは上で書いた「限りなく局地的な場所」を意識する事とは相反するようだが、自分の中では全く同じことなのだ。お百姓も哲学者も科学者も芸術家も世界中の宗教も分野や表現、アプローチの違いはあれど、皆同じような高密度の“ある点(上で書いた世界の核)”を目指している気がする。世界の密度が少し増したというのは自分が少しだけその点に近づいたということではないか。そして最も多感で敏感な時期を過ごしたこの土地が僕にとって“点”に近づく鍵になるということを再認識できた。結局、旅の前に自分のやっていた事、やろうとしていた事を今後も続けていくしか無いのだ。

一年の旅を終えた今、部質的財産はほとんどないが、目に見えない沢山の貯金ができた。それはこれからの人生の中で少しずつ下ろしていく事になるだろう。それを周りの人々と共有していければ幸いである。

※最後にこの旅の中で読んだ本にあった一節を載せて締めくくります。Facebookとのリンクは外しますが、今後も気が向いた時にこのブログにいろいろと書いていきたいと思っていますので、お時間があれば開いてみてください。皆さんの感想を読む事でなんとかこのBLOGを書くテンションを保っていました。本当にありがとうございました。

烏藪苺記    十一
綿貫征四郎

紅葉の季節が去らうとしてゐる。
全山燃ゆるが如き深き紅も見應へがあつたが、清き瀬の傍らでたゆたふ淵に覆い被さる枝先、紅の楓が差し掛かつてゐるのも、またそこから一葉二葉とひら〜紅葉が散りゆく樣、水に浮かぶ樣も興趣深いものであつた。つい昨日まで鮮やかなる紅葉を求めて野に山に彷徨ひ歩いたその愉しみも、移ろふ世の有りやうと同じく今は消え去らんとし、紅といへば冬への備へ萬全たらしめんと、吹き荒ぶ木枯しの中に揺れる隣家の軒の干し柿ほどのものである。
紅を求める心とは何か。
日々の個獨と無礼を慰めんがためのものか。しかし自然に對しても他人に對してもー尤もその二つは同じものと云へるがー畢竟自分の中にある以上のもの、または自分の中以下のものは、見えぬ仕組みなのだ。
例えばこの孤獨はそもそも何に由來するのか、といふやうな問ひ立ての答へは、私の中にしかあり得ぬ。過去に私が立てた、無數の問ひに對して、今なら私は確實に云ふことができるだらう。外に求めることはない、私の中に、少なくともその答への用意がすでにある、と。その答へを求めて私がどこを彷徨つたとしても、それは自分の中を反射させる鏡や小さきを大にして見るレンズを求めてのことなのだ。
このやうなことが明らかとされて、何が良かつたかといふと、外的には紅を求め衝動に駆られて動いてゐるだけなのだが、心持ちだけはずいぶんと靜かでゐられる、といふことである。しかしながら一方ではかうも考へた。それではまだ若輩の自分としてはいかにも殘念である。青春の覇氣が感じられぬ。が、何とも致し方ないことだ。

移ろふことは世の常である。幼き頃の美しい日々はすでに失はれ、そこに遊んだなつかしい人も心も、今は求めるを得ない。ただ滞りなきものは龍田姫の訪れ、綾錦のその裳裾を山から里へ惜しげもなく廣げ、また出立の時と見れば未練もなくしまひ上げる、野に山に飛び翔て、大車輪の働きでもつて季節の衣替えをやってのける、彼の女神の眷属、かそけきものたち。その仕事の練達の妙を堪能、冬に向ふ寂しき心の慰めとしよう。

龍田姫  御手差し挙げて  一捌けの
驟雨撒かれぬ  湖黄昏れぬ

昨夜の夢は愉快であつた。龍田姫のその美しい眷属の夢であつた。ひととき私の孤獨も慰められた。それは單なる幻ではない。繰り返しこの世を訪れ顕れる確たる現象である。それは朝寒の夜明けの露と消えた今、またいづくにか結ばれんときを待つてゐるのであらう。それが再び私の枕邊である必要はないが。

梨木香歩著『家守綺譚』より


0 件のコメント:

コメントを投稿