2013年4月1日 ティネリール→メルズーガ
早朝マラケシュからバスに乗りアトラス山脈を超える。イギリス人の友人に「本当に美しいところだ」と聞いていたが、彼の言うとおり車窓からの景色に一時も目を離すことができなかった。谷を縫うようにバスは進んで行くのだが、その両側にへばりつくように村が存在し、谷沿いにだけ植物が生えている。標高が高いところにはまだ雪も残っており、岩、家、植物、雪のコントラストが絶妙だ。アトラスを超えてしまえば風景は一転して砂漠になる。どこまでも広がる砂と岩の大地。アトラスの向こう側にはアラビア人が多く住んでいるが、こちら側には砂漠の民ベルベル人が多く住んでいる。この乾燥した砂漠にも人が住んでいるのだ。まずはトドラ渓谷に向かうためにティネリールでバスを降りる。
トドラ渓谷では4日間滞在し、久しぶりにクライミングをしたり、ハマムという公衆浴場へ行った。ハマムではムキムキのおじさんにアカスリをしてもらったのだが、自分が消しゴムにでもなったのかと思うほど垢が出た。何よりもおじさんに優しい手つきで石鹸を体に塗られるという体験はなかなかできるものではない。最後は整体のようなこともやってくれるのだが、お互い裸のため肌と肌が密着しこれまたなんとも言えない気分である。
トドラを後にして、巨大な砂丘のあるメルズーガへ。人生4つめの砂漠〝サハラ″は、今まで見てきたそのどれもを凌駕している。日本人がイメージする砂漠そのものだ。昼間に少し散歩をしてみたが暑くてとても長時間いることはできなかった。イスラム世界は月の歴で、国々の国旗にも月や星がついているところが多い。それはこの砂漠の暑さも関係しているのではないか?日中はとても人が活動できる場所ではない。こちらでベルベル人が砂漠で使うコンパスを見せてもらったが、これも月と星の位置で自らの場所と進むべき方向を確認できるようになっていた。国旗に太陽を使用し日出国と言われるところから来た自分にとって夜は死の世界、向こう側の世界だが、こちらの人の夜の捉え方は違うものだろう。
砂丘の上で旅について考えてみる。旅を初めて7ヶ月が経ち、旅は完全に日常になっている。知らない街を歩いていても日本にいる時とあまり感覚が変わらない。たとえそれが砂漠の真ん中の街でも。「それでいいのだろうか」という思いを抱えながらここのところ旅をしてきた。人は良くも悪くも様々な状況に慣れてしまう。だからといってさほど興味もない場所に行ったりアクティビティーに参加しても虚しさが増すだけだろう。少しずつ変化していく砂丘を見ていると、ただその場所にいて、その土地の空気を吸うだけでよい気がしてきた。結局僕は悶々とした中で何か分かりやすい達成感や目に見える結果を求めていたのかもしれない。しかし旅で得るものは形があるものではない、人生を通して少しずつ意味を見出していけるものだろう。ずっと悶々と考え続けるしかない。それでいい。
メルズーガでは日本にいた時からの知り合いに偶然会った。世界は広いようで随分狭い。
その他にも京都の料理人や岐阜出身のミュージシャンにも会うことができ、久しぶりに何をするでもなく皆でご飯を食べたり、音楽を聴いたりして過ごす。こういった時間もまた素晴らしい。
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