2011年8月22日月曜日

夏の旅八日目


東京→京都
前日のお酒がぬけないまま起床し、先生の展覧会を見に行く。大雨、しかも湿度が高い中で移動を繰り返していたら、この夏の旅の中で一番疲れてしまった。昼過ぎに新幹線に乗り夕方京都に到着。京都も気温が少し下がって少し過ごしやすくなっていた。
今回たくさんの人にお世話になり、その土地を歩いて東北(とくに岩手)が身近な場所になった。夏の旅一日目に先輩の工房を後輩みんなで手伝ったように、知り合えた方やお世話になった土地の為に何かをしたいという想いで動くことが自分には一番しっくりくる。大きなことは言えないしできない。日本にあった”結(まだ残っている土地もある)という相互扶助の組織を、交通手段の進歩やネットによりある意味小さくなったこの世界で現代版として実行していけないだろうか。
大船渡でお世話になっていた方々は中学高校の同級生で何かをしていこうとしていた。町から東京や仙台に出て行った人もみな時間ができれば帰ってきて、自分にできることをやっていた。地元に残っている人たちも帰ってきた人やボランティアの人の意見を積極的に受け入れみなで動いていこうとしている。職業も立場も被災状況もバラバラの方々が、時に意見をぶつけ合いながら、みなで考え動いている姿は本当に感動したし、被災地はけして下を向いているわけではないと感じた。
東北は本当に豊かな土地である。自然は本当に厳しいが、その分人間にたくさんの恵みを与えてくれる。この土地で先祖代々暮らしてきた人たちはそういった自然の顔をたくさん知っている。今後の復興の中で、まだ世界中のどこにもない幸福の価値観や暮らし方が生まれてくるかもしれない。そこに自分はどのように関わっていこうか?これからである。

2011年8月19日金曜日

夏の旅七日目


大船渡→気仙沼→一関→東京
こちらに来てから昼夜問わず余震がある。揺れる前のゴォ−という地鳴りは恐怖心をあおる。震災から五ヶ月被災地の方は毎日この中で生活しているのだ。
友人と話し合い、滞在予定を縮めて本日こちらを出ることにする。最後の日ということで朝大船渡の町をぶらぶら歩いてみる。宿泊していた地域は床下まで浸水したということだが、みなすでにお店を再開している。商店街の一角にアメリカのボランティア団体の本拠地があり、その前を通りかかるとちょうどシャベルなどをバスに詰め込み、本日の作業場所に出発するところであった。この団体の活動はほんとにしんどいらしく、直射日光のなか一日中溝の泥かきなどをするそいだ。老若男女様々な方が参加している。出発する様子を見ていると日本人の方に声をかけられる。
「ボランティア希望の方ですか?」
「すいません、今回は被災地を見て回って今日帰るんです」
「次はぜひお手伝い願います」
今回の自分の立場は微妙である。当初のプロジェクトが中止になり、今回は被災地を見て回るだけの形になった。しかし、今回現地を知り現地の方と知り合いになれたことはよかったし、地元の方もまず見てほしいと言ってくださった。とにかくこれで終わりにしてはいけない。
新幹線の駅がある内陸部の一関に向かう前に気仙沼の様子をもう一度見に行く。気仙沼は海水にオイルが混じって流れてしまい、かなり広い範囲で火災が発生した場所である。火災によって表面の塗料が溶けてしまった建物、車は酸化して茶色になっている。他の地域とはまた違った風景が広がっていた。
一関で三日間お世話になったボランティアの方にお礼を言い新幹線に乗った。仙台で一泊しその後山形入りするという友人夫婦とも仙台でお別れし、自分は先生の展覧会を見るため急遽東京で一泊することにした。夜上京している友人たちと久々に会い飲んだ。みんな元気で何より。
朝までいた岩手と東京のギャップに驚くが陸続きでこの先に被災地があるんだという感覚になる。自分の中で岩手は遠く行ったことのない土地ではなくなった。

夏の旅六日目


大船渡→陸前高田
朝目を覚ますと一緒に宿泊している地元出身のボランティアの方はもう出発の準備をしていた。大船渡には世界中の被災地で活動しているアメリカのボランティア団体が本部を構えている。地元からも何人か参加しているようだ。
今日は昨日国道沿いから見ただけではわからなかった、被災場所や避難所、仮設住宅を気になった場所で車を止めながら見ていく。はじめてこの辺りに来た自分は、悲しみよりも先にその景色に圧倒されてしまう。言葉がでない。
避難した人たちは、このあたりではみな公園や小学校などに建てられた仮設住宅に移動したようだ。市街地が完全に流された陸前高田では、病院やスーパー、コンビニまで仮設で作られ、仮設住宅近くにあらたな街ができていた。
津波の被害は独特で少しの高低差で隣り合う住宅でも全壊と半壊、もしくは床下浸水と被害状況が違う。流されて何もなくなってしまった土地の横で地元の方は普通に生活されている。現地に行ってメディアが作るイメージがすべてではないことがよくわかった。けしてみなが悲観にくれてばかりいるわけではない。
津波被害の地域を回って、ひとつ気になったことは、鉄筋コンクリートで作られた比較的新しいエリアと昔から人が暮らされていた木造建築エリアでは津波後の景色にかなりの違いがあったこと。鉄筋コンクリートの街の跡は基礎がだいたい残っていて、そこに何があったのか想像できる。言葉が正しいかはわからないが廃墟という言葉が合い、絶望感に近い圧倒のされ方をするのに対し、木造エリアは完全にすべてが流され、道が残っているだけなのだ。その景色はまたこれからこの場所がどう変わっていくのだろうかと想像することができた。これは自分の片寄った視点もあるのだが、かなり興味深い発見であった。
実際現地に来て何が不謹慎になるのかなど自分の中でかなりあいまいになってしまった。現地の人の生活や活動を見ていると、被災地以外の地域の人々の方が過剰に反応しているようにさえ感じる。こちらの人は自然に対して謙虚であるし、国や自治体に求めるばかりでなく、自分達でできることはどんどんやっている。都会の人間よりずっと強い。

2011年8月17日水曜日

夏の旅五日目


仙台→一関→気仙沼→陸前高田→大船渡
朝起きると変な体制で寝ていたせいか腰が痛い。早めにゲストハウスを出てスタバでバスまでの時間を潰す。仙台はバスが多い。東北各県いたるところにバスが出ている。山が多いこともあり電車よりもバスの方が便利なのではないか。バスの発着を見ているとここが東北の中心地だということがよくわかる。
仙台からバスに乗り一関を目指す。内陸部を通る高速からはどこまでも広がる田園風景が見える。そしていたるところにブルーシートを屋根にかぶせた家も見える。津波被害が大きくでているが、こういった内陸部の被害はあまり報道されていない。
一関で友人夫妻と今回被災地の案内をしてくれる団体の方と合流し、車で津波被害の大きかった沿岸部を目指す。はじめに気仙沼を見たのだが、地震で地盤沈下したこともあり、海の位置が道路ぎりぎりだった。一階部分がほぼなくなった家が多く、こういった家は撤去されずに残っていた。つぎは陸前高田へ、こちらは地形的に平らだったこと、大きな川があったこともあり、被害の状況はすさまじかった。街がひとつまるまるなくなったという感じ。いたるところに瓦礫の山がある。車を降りて瓦礫を見てみると、つい五ヶ月前までここでは日常生活があったことが実感できる。
その後今回宿泊でお世話になる大船渡へ。大船渡も海側の被害は大変なものである。船は陸の上に上がったままだ。被害の少ない地区の靴やさんの裏に畳をひいてもらい、ここで何日かお世話になる予定だ。大船渡では、今回案内をしてくださる方の同級生の方々が定期的に集まり今後どのようにしていくか話し合いをされている。また海外の大きなボランティア団体も本部を構え、瓦礫の撤去や見つかった写真の整理などをされている。
集められた写真の中には今回の津波で亡くなられた方のものもあるだろう。ここには日常の生活がついこないだまであったのだとやはり強く感じた。

2011年8月16日火曜日

夏の旅四日目


名古屋→仙台
前日の夜名古屋港を出発し、今日はほぼ船の中で寝て過ごす。海は荒れておらず、船があまり揺れないのは酔いやすい自分にとってはありがたい。乗船したときから気になってしょうがなかった人に思いきって声をかける。
「岐阜の方ですか?」
「はい…」
「人間違いだったらもうしわけないのですが、竹中くん?」
「はい…」
「おれ同じ諏訪山団地に住んでた川上。三人兄弟でさ、ひとつ上の学年の長男なんやけど…」
「あっ思い出しました!」
まさか仙台行きの船の中で、近所の幼馴染みに会うとは思っても見なかった。彼は岡山の大学に進学し、現在は大阪で働いているようだ。つまり自分と同じように流れている部類。お互い今までの旅の話で盛り上がった。
四時頃仙台港へ。ぐちゃぐちゃの車、うち上がった船、一階部分が裸になっている倉庫、集められた瓦礫の山。復興は進んでいるが、すべてが一瞬で消せるわけではない。船のデッキから下を見る乗船客はみな黙ってその景色を見ていた。
本日は仙台で一泊。格安ゲストハウスのドミトリーで寝る。海外同様こういったゲストハウスには様々な国から旅行者が集まる。またボランティアの人も多い。ある団体の副代表の方の話ではまだやらなければいけないことは山のようにあるとのこと。夏休みに入り、大学生が増えるかと思ったが、思いの外少ないようだ。彼いわく現地にこなければ結局何もわからない、くればすべて変わるということだった。そんな中で面白かったのが彼があったボランティアの中で三割ほどが岐阜の人だということ。なぜだろうか…不思議だが嬉しくはなる。
ひとりで仙台の街を歩いていると、ここに地震がきたとは思えないほど、栄えている。ほぼすべてのお店も開いている。いたるところに「がんばろう日本・がんばろう東北」という垂れ幕があるぐらい。(もちろん一瞬立ち寄った旅行者の表面だけを見た感想)
人の力はすごいものだ。
フットサルの筋肉痛でしんどい。早く落ち着いてほしい…

2011年8月15日月曜日

夏の旅三日目


岐阜→名古屋
午前中は中学や高校の友達とフットサルをして過ごした。昨日の先輩に続き、結婚報告や奥さんの妊娠報告を多数受ける。みんな確実に大人になっている。自分とは逆に地元に残り、しっかりとそこに根をはっているみんなを尊敬してやまないし、逆に自分はみんなの刺激になれているのかと自問する。
フットサル後、荷物をまとめ名古屋へ。フェリーに乗り仙台をめざす。ひさびさの船旅。船の出発の瞬間は毎度興奮してしまう。

2011年8月14日日曜日

夏の旅二日目


信楽→岐阜
朝一番に信楽の先輩宅を出て、実家のある岐阜へ。祖父母を買い出しに連れ出したり、犬を散歩して時間を過ごす。年に一二度しか実家に帰らないため、当たり前のことだか祖父母も親も犬も毎回歳を重ねている。そしてそのスピードに毎回驚いてしまうのだ。家を離れて8年、実家で暮らしていた時とはまた違う家族との距離感にこれでよいのかと考える。
夜は最近結婚した先輩宅へ。自分がまだ独り身だけに先輩の話がおもしろく、日付が変わっても話はつきない。

2011年8月13日土曜日

夏の旅一日目


京都→信楽(滋賀)
京都から先輩の工房兼住居の改装手伝いの為、ローカル線にゆられ信楽へ。三月の改装着手から数えておじゃまするのは三回目だが、もう人が十分住めるまでになってきた。これを日頃一人でコツコツやっているとは…。
今回は男六人が助っ人で呼ばれどうしてもひとりでできない力仕事をしていく。一人なら何日もかかる仕事を男七人なら30分程でこなしてしまう。人数がいるというのはすごい。かつて集落ごとに「結」という相互扶助の組織があったことも納得できる。今は様々な仕事は細分化され、すべて業者任せである。近所の人にわざわざおねがいすることなどない。しかし、みんなでひとつのことに取り組むなかで生まれる連帯感・責任感は、ひとつのコミュニティーを維持するためには必要だと感じた。
夜はさんざんお酒を飲んで、ほぼ床の上で就寝…

2011年8月10日水曜日

バス停


ある日、山間部の小さな集落の中にある農協の前のバス停で、バスでやってくるはずの人を待っていた。自分以外にはかなり歳を重ねているおばあちゃんがひとりバスを待ってベンチに座っている。辺りには川の音と鳥の声だけが響いている。
そこへ近所の子供6人がプールの道具を持って現れる。農協には小さな商店が併設されており子供たちはその中に入っていく。しばらくすると彼、彼女らはアイスクリームをくわえ外に出てきて農協で働いている若い男と話をしている。典型的な夏休みといった感じのその風景を見ていると自然と自分の口角が上がり、目尻にしわが寄っていることに気づく。ふと隣を見ると老人も子供たちを見て笑っている。
山の陰からバスが現れ、自分が待っていた人がゾロゾロと重い荷物を持って下りてくる。
「いってきまーす!!」農協の男に子供たちは別れを告げバスに乗り込む。遅れておばあちゃんも乗り込む。バスがゆっくりと走り去る。農協の男は仕事に戻る。
また辺りは川の音と鳥の声だけが響いている。
1日に4回しかこのバス停にはバスはこない。その度に人々は集まってきて言葉を互いに交わす。知らない場所のこの一瞬の交流に、見ていただけにせよ立ち会えたことが妙にうれしかった。

しかし、毎度のことながらなぜ自分が今ここにいるのか不思議に思う。