2012年12月27日木曜日

アンマン




20121227日 アンマン


SNSの中からはみんなの楽しそうなクリスマスの様子が伝わってくる。日本にいる時は特別にこの日を祝うようなことはしていなかったが、全く周りがそのような雰囲気でないのもさみしいものだ。24日はヒンドゥー教と仏教の街カトマンドゥーで日本に荷物を送るなどした後、空港へ。今回乗る飛行機はエアアラビアといういかにもイスラム圏の航空会社だったし、乗っている人もほとんどがネパーリーだったので、全くクリスマス感はない。日付が変わった頃UAEのシャールジャに到着。周りは頭に布をかぶり輪っかで固定し、口髭をはやしたおじさんとスカーフで頭を隠した女性ばかりだ。もちろんクリスマス感はない。ここで9時間のトランジットをした後、飛行機を乗り換えてヨルダンの首都アンマンへ向かった。どんどん西に移動していくので、時計の針はどんどん戻っていく。随分長い寂しいクリスマスだ。

当初この旅で中東に行くことは考えていなかった。ネパールからそのままトルコに飛ぼうと考えていたのだ。しかし、西からやってきた旅人の中東やイスラム圏の話はとても魅力的に聞こえた。イランに入り、そのまま陸路でトルコに行くことも考えたが、どうせならユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地があるイスラエルのエルサレムにも寄りたいと思い、まずイスラエルの横の国ヨルダンに行くことにしたのだ。ヨルダンはテレビの紀行番組で見たことがあるくらいで今まで全く意識をしたことのない国である。シャールジャを飛び立ち窓から下を見みると木が一本も生えていない砂漠がどこまでも続いていた。今までに見たことがない風景、旅を初めて約4ヶ月でずいぶん遠くまで来たと実感する。こんなところに人は住めるのだろうか。上空から見る限り人そして家さえも見当たらない。この先にあるヨルダンとはどんな国だろう。久々に気分が高揚してくる。

13時頃アンマンに到着。空港を一歩出たところで違和感を感じる。タクシーの客引きが1人も寄ってこないのだ。空港前からバスに乗り都心部へ向かう際も車は揺れない。道が綺麗に舗装されているのだ。そして車窓からはずいぶん遠くまで景色を見渡すことができる。そう空気が綺麗なのだ。日本にいれば当たり前のことなのだが、4ヶ月間中国、東南アジア、南アジアを旅しているとそんなことで感動をしてしまうようになっていた。宿に荷物を置きダウンタウンを歩いてみたが、ゴミもあまり落ちていない。人々はみな目が合うと車の中の人でさえ手を上げたりほほ笑みかけてきてくれる。話しかけられて身構えると「ようこそヨルダンへ」と言ってくるのだ。ここは天国ではないだろうか・・・

翌日はアンマン市内の遺跡や美術館等を回る。遠くローマを感じさせる劇場や城の遺跡はたくさんの国に支配されてきたこの土地の歴史が垣間見え、どこか哀愁を感じる。もちろん物売りがいっぱい寄ってくることもない。そして何より僕が感動したのは、立ち寄ったカフェや私設美術館のセンスの良さである。ああ、ぼくはこういったものに飢えていたのだと分かった。今までの国でもできるだけ現在のカルチャーシーンを見ようとしていたのだが、アンマンほど感動したことはなかった。(もちろんインド・ネパールとのギャップでそう思った部分は大いにある)坂が多く街が起伏に富んでいるところなどを含め、僕は本当にこの街を気に入ってしまった。

本日、国境を抜けイスラエルのエルサレムに来たが、1週間この街に滞在し、年を越したあと、再度アンマンに戻る予定である。

※只今ギャップに高揚しておりますが、もちろん今まで旅してきた国々も本当に素晴らしいです。

・私設美術館 Darat Al-Funun
・洋書販売とカフェ(シーシャも吸える) Book@Cafe
・図書館、カフェ、ギャラリーを併設した文化施設 JADAL:Knowledge/Culture

2012年12月23日日曜日

ティミ




20121223日 ティミ


4日前からティミというカトマンドゥ郊外の街に滞在している。この街のオールドティミというエリアは有名な焼き物の産地である。大学の先生の知り合い宅にお世話になりながら、この4日間近くの工場や、路上で作業している職人達の仕事を見学している。

僕が今お世話になっているSanta KumarさんとLaxmi Kumar Prajaptiさん兄弟は、ティミセラミックスという会社を経営されている。ネパールで初めて高温焼成(1200)による焼き物(普段私たちが使用している陶器)を生産した会社だ。今ではノルウェーやイタリア、アメリカ、韓国、それに日本と世界中から注文を受け日々たくさんの陶器を手作業で生産している。手作業といっても電動化された機械を使用しているが、この停電だらけの国ではなかなか大変なことだ。作っているモノがとてもモダンでびっくりしてしまった。
しかし、今もこの街のほとんどの家ではタイヤで作った手動のロクロを使用し、路上で乾燥、仕上げ、焼成(野焼き)までを行なっている。(野焼きの場合は焼成温度が700度~800度で表面が植木鉢のような仕上がりになる)街のいたるところで煙が上がり、乾燥のために並べられた鉢や水瓶の間を子供や犬、鶏が走り回る。今まで日本の焼き物産地もたくさん見て回ったが、独特の湿度、匂い、テンポがあり、同じような雰囲気が漂っている。この街ではほとんど販売を行っておらず、生産がメインなのでツーリストは全くいない。地元の人もこちらを物珍しげに見てくるが、僕が焼き物をやっていて(そう言っていいかはわかりませんが)日本から来たということを知ると、「さあさあ中に入れ」という具合に色々なものを見せてくれる。今まではどうしてもツーリストエリアが中心の旅になってしまっていたが、焼き物という自分なりの視点を持っていたおかげで、この国の少し中の方を覗けたような気がした。会社がとても忙しいにも関わらず、ご兄弟は交代で一日ずつ僕の相手をして様々なところへ連れて行ってくれた。「貴重な時間を潰してしまって申し訳ない」と伝えると、「あなたは陶芸家で私も陶芸家だ。ただそれだけのこと」とおっしゃった。うーん自分にこんなことができて言えるだろうか。それだけでなく快適な寝場所と美味しい食事も提供していただいた。(この国に来て初めてのホットシャワーもここで浴びることができた)11人の大家族で食事の際はいつも賑やかで楽しい。本当に至れり尽くせりの4日間だった。

20日間滞在したネパールを明後日離れる予定だ。インドから来たということもあるが、(インドも大好きです)人々は皆優しく、かなり過ごしやすい国だった。人生で初めて2度訪れた国である。しかし、インドから続く都市部の空気の汚さに喉と鼻が常に調子悪く、そこからくる頭痛にも悩まされた。早く空気の綺麗な場所に避難したいが、これから向かう中東もイメージではあまり変わりはなさそうである。(笑)僕がこの国にいる間に日本では大きな選挙が行われ、僕の人生の大半がそうであったように自民党が政権を取ったようだ。これに関しては投票をしていないので何とも言えないが、離れている間も日本では様々なことが起きているんだなと実感した。物事は常に移り変わっていく。(今回の選挙は変わったのか戻っただけなのかわからないが)その中で変わらないものはなんだろうか?中学生の頃からずっと考えているこのことの答えはきっと、世界中どこでも同じはずだ。そう思っている。さてそれは何か?知らない街の裏路地を歩き、人々の生活を見ながら、そのことをまた考えている。(まあなんとなく分かってはいるが)

※陶器に関する用語が多くなると、文章の中が( )だらけになってしまいます。すみません。そして、陶芸をされている方にとってはとても説明不足な内容です。これまたすみません。お詫びに動画を貼り付けます。このアップロードになんと10時間かかりました。しょっちゅう停電かつ弱いwifi頼りだと何をするにも時間がかかります。




2012年12月18日火曜日

ランタン谷トレッキング 後編




2012121316日 ランタン谷トレッキング後編


トレッキング5日目、朝覚悟を決めてシェラフ(寝袋)から這い出す。カーテンを開けると辺り一面真っ白な世界が広がっていた。ガイドが天気次第だと言っていたので今日4500mまで登るのは無理だろう。ダイニングまで降りていくと同じロッジに泊まっていたスペイン人2人、僕のガイド、そして宿の家族が薪ストーヴを囲んで談笑していた。韓国人のパーティー6人は日程の関係で谷のさらに奥にある山への登山を強行したらしい。
「多分途中で帰ってくるよ。ほんとに危険だから。」
と宿のオーナーと僕のガイドが言う。その日は完全にオフになった。ゆっくり標高に順応できていいだろう。外は寒すぎるのでストーヴの前で本を読むことにする。シェルパの人々は顔が似ているので言葉が通じなくても同じ場所にいて違和感がない。スペイン人はカードゲームや宿の子供にネパール語を教えてもらっていた。彼らの人との距離は近い。これは実際の距離もそうだし、気持ちの面でもあまり距離を取らない。その分、人と早く仲良くなっている。もちろん個人差はあるが、この人との距離の取り方にも国民性があるなと思う。国民性というよりも土地性かもしれない。そんなことをしていると、予想通り韓国人のパーティーは帰ってきた。途中で何も見えなくなり彼らのガイドがストップをかけたらしい。山では無理はしないほうがいい。翌日は下山をしなければならないので、ガイドと相談し早朝に登れるだけ登ることにした。

6日目朝起きると外は晴れていた。軽い朝食の後、ガイドと歩き出す。バックパックを背負っていないのでかなり楽なのだが、やはり呼吸はしんどい。雪の中を歩き続け約4300mあたりでガイドが今日は帰らなくてはいけないので引返しましょうと言う。まだ時間的には余裕があるのになと思いつつ、僕もしんどかったので引き返すことにする。宿まで戻るとガイドは計画を変更して一日早くカトマンドゥに戻りたいと言い出した。どうやら風邪気味らしく、次のトレッキングがすぐ控えているので病院に行きたいらしい。どうりで早く引き返したわけだ。それから荷物をまとめ宿を出た。一日早く帰るため、歩く距離はかなり増えたのだが、帰りは下りで、酸素もどんどん濃くなっていくのであまりしんどくはない。2日間かけてバスの発着点まで戻り、途中で出会った日本人の方がチャーターしたジープに彼の好意で同乗させてもらい快適に首都カトマンドゥまで帰ってきた。8日間山での生活はしんどかったが素晴らしい景色とじっくりと考える時間を得ることができた。お風呂にも入らず、服も1度も変えなかったけれど・・・・。

さてここからはトピックを立てて感想を書きます。
●ガイド
僕のガイドは2つ年下の25歳。首都カトマンドゥに生まれ育ったそうだ。僕の理想のガイドはその土地の歴史や人々の生活などを詳しく教えてくれる人だが、彼が教えてくれたのは麻の自生場所と山でしたイイ思いの話(女性に関する)だった。体調の優れないこちらに対して常に気を使ってくれたので、その点は感謝しているが、帰路の最終日は僕に慣れたのか随分ずうずうしくなり、一人で早く歩いて行ってしまったり、煙草を吸いながらや水のペットボトルに透明のお酒を入れて飲みながら歩いたりしていた。朝ごはんから1時間半しか経っていないのに昼飯にしたがるので理由を聞くと、そこの小屋の女の子が可愛いからだと言うし、標高が下がり携帯の電波が入ると何回も彼女やその他の女の子に電話をして短い首都での生活に予定を詰め込んでいた。(君、風邪でしょ?)そういった言動からコイツは随分粋ったヤツだということが判明した。家はネパールの中でかなり裕福な層らしいので、つまり粋ったボンなのだ。粋ったボンに国境は関係ない。

●食事
けして不味いわけではないが、体調が優れない時に脂分の多い食事をするのは相当に堪える。そもそも僕は一番好きなものが冷奴だし、あまり脂の多い食事が得意ではない(たまには食べたいが毎食は無理)。平地ではその土地のものをできるだけ食べたいと思うが、山にいる間はずっと永谷園のお茶漬けと茶碗蒸しを食べたいと思っていた。

●暇つぶしに関して
登っているときは1日で一気に標高を上げたりしないので、だいたい14時には宿につく、夕食は18時頃で、だいたい皆20時には寝てしまう。しかし、飯を食べる以外に特にやることはなく、着いてから辺りを駆け回る元気もないのでかなり暇なのだ。電化製品の充電にはお金がかかるし、僕は大体の時間ガイドの下ネタを聞いているか、それに飽きると本を読んでいた。持っていった本は1冊なので途中で読み終わってしまわないようにするのが大変だったし、自分の部屋には暖房器具は一切ないので片手で本を読みながら、もう一方の手をシェラフにつっこみ、限界がきたら手を変えるという技をあみだし、白い息を吐きながら時間を潰していた。(しかも読んでいた本は地中海の話)

まあ、山での生活はこんな感じだったのだが、下山途中に1人の登山者に声をかけられた。彼は日本人で(このトレッキング中に会った日本人はたった2人で、もうひとりは帰りに乗せていただいた方)、上の村の様子などを聞いてきた。僕がなんとなく応えていると彼は「僕の宿に泊まってくれたらよかったのに。」と言う。よく話を聞くと、彼は僕が泊まっていた3900mの村に住んでおり、ゲストハウスを経営しているらしい。世の中にはいろんな人がいていろんな人生があるものである。おおガイドよ、そんな面白い日本人がいることさえお前は教えてくれなかったのか・・・・知っていたのに。

2012年12月17日月曜日

ランタン谷トレッキング 前編





201212912 ランタン谷トレッキング 前編


早朝僕とガイドを乗せたローカルバスはカトマンズのバス停を出発した。当初は一人でトレッキングに向かうつもりでいたが、体調が優れないのと、まだ自分が未経験の標高まで登る予定の為、今回の貧乏旅行の中ではかなりの高額を払いガイドを雇ったのだ。トレッキングの出発点シャンプルベシまではバスで約10時間。この旅一番の悪路だった。天井や側面のガラスに何度頭をぶつけたことか・・・・途中、崖崩れの跡の様な場所もあり随分怖い思いをした。1日目はシャンプルベシで一泊し、翌日からいよいよトレッキングである。

2
日目、2時間程歩いたところで自分の様子がいつもと違う事に気がつく。まだ標高が低いにも関わらず息切れがひどい。風邪をひいているという事もあるが、自分の体力が日本にいた時よりかなり落ちてしまっている。旅は電車やバスの移動が多く、体をほとんど動かさないからだろう。また体重も6kgほど落ちてしまっているので、その影響もあるかもしれない。息も絶え絶え、2700m地点にある2泊目のロッジに到着する。今は完全にオフシーズンの為トレッカーもかなり少ない。ネパールの12月は寒いのだ。汗はかいたが水しか出ないシャワーを浴びる気にはなれない。

3
日目ついに標高は3000mを越す。4年前のネパールで登ったプーンヒルが3000mだったのでここから上は未知の領域である。なんとなく頭が痛くてお腹もゆるい。ここまでくると森林限界を超え急に視界が開け壮大な風景が広がる。ヒマラヤ山脈は約5000万年前インド亜大陸とユーラシア大陸それぞれの乗るプレートが衝突し、2つの大陸の間にあったテーチス海の地層が上に持ち上げられて出来上がった。この地殻変動は現在でも続いており、チベット平原は現在でも年間3mmほど隆起を続けている。物質的にも時間的にもその壮大なスケールの中ではひとりの人間など本当に無力だ。また逆に目の前の景色が自分の外のものなのか中のものなのか分からなくなる。ここには宗派が必要だ。だれかが自然の中から真理を読み取り、それを分かりやすく言葉にし、皆を安心させる必要がある。(この辺りにはシャルパ族という遠い昔チベットからやってきた人々が暮らし、チベット仏教を信仰している)


少し進んでは休憩を繰り返す。ある村に行方不明者の貼り紙があった。ガイド曰く、この谷で高山病になり、どこかで死んでしまったのだという。この谷のコースはネパールのトレッキングコースの中でも特に死者が多く、今年だけで19人も亡くなったそうだ。そのほとんどが高山病で、あるドイツ人は前日まで元気だったのに、翌朝ベッドの中で死んでいたらしい。他人事ではない。なんとかかんとかこの日の日程を歩き切り、3500mの村までたどり着く。夜は焼きそばの様なものを頼んだが、脂っぽすぎるのと食欲もあまりなかったので申し訳ないと思いつつ残してしまった。夜シャラフに潜り込むがなかなか寝付けない。深夜2時頃トイレに行く為部屋を出ると、空には満天の星空が広がり、頻繁に流れ星を見ることができた。


4日目、結局あまり眠れないまま翌朝になり、窓の外を見てみると、昨日まで巨大な岩壁から流れ落ちていた滝が凍ってしまっていた。唖然とする。今日は富士山の標高を越え4000mに近づく為短い距離をゆっくり高度順応しながら登っていく。最も高山病の危険がある領域だからだ。途中から周りの景色が全く見えないほど霧がかり雪が降り出した。寒すぎる。ふと生きて帰れるかなと考える。そんな僕を横目にシェルパ族の人達は50kg以上の荷物をもってサンダルで追い抜いていく。

そして僕は今標高3900mの村に滞在している。酸素が薄い為体は多少重いがひどい高山病ではない(ドイツ人の例もあるのでなんとも言えないが・・・・)。明日はここから4500m地点まで日帰りで行く予定だ。風呂には4日入っていないが、不思議と匂わない。標高が高いからなのか、鼻が慣れただけなのか・・・・

2012年12月8日土曜日

カトマンドゥ




2012128日 カトマンドゥ


インドのヴァラーナシィーから電車とバス2本を乗り継ぎ、約24時間かけてネパールのカトマンズに到着した。ヴァラーナシィーから引きずっている喉と鼻の痛みは治るどころかますますひどくなってきている。辛い。

ネパールは4年前に10日間だけ旅をしたことがある。その際に次は絶対に時間をかけて旅をしようと心に決めていた。前回はほぼトレッキングしかしてなかったので、街をじっくり見るというのは今回が初めて。宿に荷物を置いて早速安宿街のタメル地区から街の中心部ダルバール広場まで歩いてみる。ちょうど昼時だったのでタメル地区にある「ふるさと」という日本料理屋でまず腹ごしらえすることにする。インドにいる時にネパールからの旅人がみなカトマンズの日本食のレベルがすごいと言っていたので、ずっと楽しみにしていたのだ。早速親子丼(味噌汁と漬物付)を注文し食べてみるとそれはもう美味しかった。日本の国道沿いにある寂れた食堂のような味。しっかりと日本米も使われていた。カトマンズでは日本食に限らず、韓国料理、イタリア料理その他もろもろなんでも美味しいらしい。ネパール人のコピー能力はすごい!

トレッキングが主な観光産業のこの国では街のあちこちにアウトドア用品店が並んでいる。欧米の有名メーカーのウェアやギアがズラリ。これらはほとんどが偽物のようだ。しかし、年々この偽物のクオリティーも上がっているらしい。やはり彼らのコピー能力はすごいのだ。

ダルバール広場にはマッラ王朝時代の宮殿やヒンドゥー寺院が立ち並んでいる。同じヒンドゥー寺院だが、インドのそれとは趣が異なりレンガと木を組み合わせたものだった。やはり木を使った建築物には親しみを感じる。ネパールもインド同様多民族国家で、様々な宗教も共存している。インドでは同じ宗教、同じ民族、同じカーストの人が一緒にいるという印象だったが、ここネパールでは顔が全然違う二人が仲良く世間話をしていたり、手をつないで歩いていたりする。これはとても不思議な光景だった。ここにはインドとはまた違った様々な人々が共存していく鍵があるのかもしれない。短い滞在の中でその鍵を見つけることができるだろうか。また、ネパール人はみな優しい。お隣インドから来たから余計そう思うのだろうが、ネパール人にはついつい警戒心を解いてしまう。気をつけなければ。

明日から9日間トレッキングに出かける予定である。旅をする人は体力があるように思われるが電車やバスで移動しているだけなので、みな階段を登っただけで息を切らしている。それに加えて風邪をひいているので、そんな長い距離を歩けるか心配だが、とりあえず行ってきます。

2012年12月4日火曜日

ヴァーラーナスィー




2012124日 ヴァーラーナスィー


マナーリーから一度デリーに戻り、電車でヴァーラーナスィーへ。当初なんとか取れた電車を勘違いで乗り過ごしてしまい、お金を節約するため電車のランクを一つ落として乗ることにした。インドの電車はすごいといろんなところで聞いていたが、今までは特になんの苦労もなかった。しかし今回の電車は8人用のコンパートメントになんと23(子供3人含む)も乗っていたのだ。一体どうしてこのようなことになるのか。どうやらインドの鉄道会社はキャンセル待ちのチケットを大量に販売するようだ。本当は当日キャンセル待ちの中で乗車できる人のリストが貼り出されるのだが、みな関係なく乗車してくる。その為、幅50cm程の一人用の寝台ベッドでインド人と添い寝する羽目になった。

聖なる河ガンガーの流れるヴァーラーナスィーはヒンドゥー教最大の聖地である。今まで様々なインドに関する旅行記や小説を読んできたがどの本にもヴァーラーナスィーのことが書いてあった。よくインドの写真である沐浴の風景はこの街のものだ。早朝に駅に着き、宿に荷物を置いてそのままガート(川沿いの沐浴場)を散歩した。ガンガーは聖なる河でもあるが人々の生活にも欠かせない河である。沐浴をしている人の横で洗濯をしていたり体を洗っている人がいる。日本の伊勢神宮の事を考えると異様に映る風景だが、ここインドではそれも納得してしまう風景である。さらに歩いていると白い煙が上がっている一角があった。近づくと組まれた木から炎が上がっている。よく見ると木の間からは人の足が飛び出ていた。ここは火葬場である。ヒンドゥー教の人々にとってこの聖地ヴァーラーナスィーで火葬されることが最も幸せな最後の迎え方だそうだ。しばらくじっと見ていると燃え盛る炎の中から黄色い液体が勢いよく吹き上がった。その瞬間そこで燃えているものが人であるということが急にリアリティーを持って迫ってきた。インドについて日本では見えないようにされているものが、全て路上で見えるという感想持ったが、それこそヴァーラーナスィーは生も死も含めて見ることが出来る街である。

ヴァラーナシには3日程滞在する予定だったが、結局8日間も滞在してしまった。当初はこのあといくつかの街を回る予定でいたが、ヴァーラーナスィーに来てインドはこれでいいなという気持ちになった。インドは本当に多面的な国である。たくさんの民族、言語、宗教を抱え、それでも一つの国としてやっていかなければならない。その為インドという国のネジはかなりゆるく絞められているように感じる。それはヒンドゥー教に関しても同じ。その遊びの部分に対して遊びの少ない国から来た僕たちは様々なことを思う。しかし、これからは日本もどうなるかはわからない。たくさんの移民を受け入れる日がくるかもしれない。その時インドに習うことは多いだろう。

インドではたくさんの旅人に会った。みな様々な想いを持って旅に出てきている。そんな人たちと話していく中で自分にとっての旅の意味を再度考えさせられた。明日ネパールに向かって旅立つ予定である。

2012年11月25日日曜日

マナーリー





20121125日 マナーリー


ダラムシャーラからローカルバスで14時間かけて、マナーリーという街まで移動してきた。バスは渓谷の間を縫うように走っていく。山間部のローカルバスなので中国の時と同様に屋根の上まで荷物をいっぱいに積み込み、人そしてヤギまでも乗れるだけ乗り込んでくる。窓の外にははじめ茶畑が見えていたが、標高が上がるにつれりんご畑に変わっていった。まるで長野県を旅しているような気分になる。同じような地形や気候であれば、必然的に栽培される農作物や、道の作り方、人々の生活までやはり似ているものだ。お茶が栽培されているということは、ここも以前書いた照葉樹林帯に入っているのだろう。
結局僕が興味のある場所は日本にいる時と全く変わらない。気がつけば、北へ、さらに山間部に足が向く。今回旅に出る前にどうしても行きたいとピックアップした場所は、中国雲南省・ネパール・北インドにかけてのヒマラヤ周辺、スウェーデンラップランド地方、アイスランド、パタゴニア、カナダからアラスカにかけての北西部沿岸と寒くて、山ないし森があるような場所ばかりだ。

マナーリーは雪化粧をした山々に囲まれていてダラムシャーラよりも寒い。毎日ダウンを手放せないほどだ。この街の魅力は温泉があること。街の中にどこからでも丸見えな浴場がある。約3ヶ月ぶりに湯船に浸かると自然に深いため息が出た。やはり自分は日本人だなと思う。また、この街には山道を歩いて30分ぐらいしたところに大きな滝があり、その滝に向かう途中はローカルの人々の日常生活が垣間見れる。家や畑を作るため組まれた石垣は美しく、その間を馬のキャラバンが重たいレンガを背中に積んで歩いている。滝の下でタバコをふかしながらボーとしていると、下流の橋を4匹の羊と羊飼いが渡っていった。その姿に自然の中で生きる人間の謙虚さを備えた美しさを感じた。僕はずっと絶対的な存在の中の個の在り様に興味があるのだ。自分の制作でもずっとそれを表現しようと試みてきた。羊と羊飼いを見た瞬間、自分の興味の対象を再確認させられ、ハッと目が覚めた気がした。

一緒に宿に泊まっていた友人が「おれ海見て心動いたことないねんな」とつぶやいた。たしかに自分もそうである(もちろんでかいなーとかきれいやなーとは思います)。きっと人それぞれそういった場所があるのだろう。海や砂漠、大都会の人もいるだろう。今回の北インドは1週間で回る予定が、2週間の滞在に伸びてしまった。しかし、とても充実した日々だった。自分のアンテナに正直に従い、興味のある場所には時間をかけようと思う。それでいいのだ。

2012年11月19日月曜日

ダラムシャーラ





20121119日 ダラムシャーラ


ジャイサルメールから電車で18時間かけて首都デリーに戻り、半日時間を潰した後、バスで12時間かけて北インドのダラムシャーラまで移動してきた。

ダラムシャーラは標高が2000m近くもありかなり寒い。数日前までTシャツと短パンだけで過ごしていたのに、今は長袖にフリースを着て、さらにアウターを一枚羽織っている。それでも寒い。この気候の変化に完全にやられてしまい、ダラムシャーラに着いた翌日は激しい寒気と下痢が止まらなくなり、宿から全く動けなかった。弱っている時は元気な時の自分を忘れてしまうもので、もう旅を続けられないかもしれない、日本のみんなに会いたいと毛布に包まりながら考えていたのだが、翌日にはケロッと治ってしまった。昔から限られたスケジュールの中で予定を詰め込みすぎる癖があり、毎度のこと途中で倒れてしまう。そして反省しながらも同じことを繰り返す。元気な時は弱っている時の自分を忘れてしまうのだ。

体調も回復したので、昨日は早速トレッキングに出かけた。もう少し休めばいいものをほんとに懲りないのだ。片道3時間半程かけて標高2700mまで登った。そこは草原のような場所で、標高5000m程あるダウラーダール山系を望むことができる。現地で出会った日本人の友人は初登山で、装備の問題もありかなり疲れていたが、山頂からの景色を見た瞬間に「登山ええな」と漏らしていた。素晴らしい景色もまたそれまでの苦しい道のりを忘れさせてしまう。

ここダラムシャーラはインドにありながら、かなりの数のチベット人が住んでいる。というのもここにはチベット亡命政府が存在しているからだ。その歴史背景に関しては知っている人も多いと思うが、中華人民解放軍がチベットを軍事制圧したことにより、1959年にダライ・ラマ14世はインドに亡命し、ここダラムシャーラ(正確に言えばダラムシャーラの街の少し上にあるマクロードガンジ)にチベット亡命政府を発足した。それと共に数万のチベット難民もこの街に移住してきたそうだ。
チベットの人々を見ているとその信仰の深さに驚く。人々(特にお年寄り)は手の中で数珠の珠を動かしながらお経を唱え、マニ車を回しながらお経を唱え、お寺の周りを何度も回りながらお経を唱えている。同じことを繰り返しながらより良い来世、輪廻からの解脱を願う。似た顔をしているが信仰に関しては我々日本人とは全く違うように映る(もちろん一概にはいえない)。その差はなんだろうか?そう考えるとやはり土地の違いが浮かぶ。彼らチベット人が住んでいる(もしくは住んでいた)場所は高原で、放牧をしながら生活をしている。たくさんの資源に恵まれている私たちの国から見れば住むのが大変な土地だ。そこで生きる為には日々コツコツと同じことを繰り返していかなければならない。この繰り返しの生活に意味を見出す。「日々の生活、信仰の繰り返しがより良い来世に繋がる」そう信じることが人々にとって救いになるのではないか。以前旅したモンゴルにもチベット仏教を信仰する人は多い。なぜ離れた場所で同じ信仰をしているのかずっと疑問に思っていたが、あのモンゴルの平原を考えれば、同じことが言える気がした。
このブログのタイトルの「KALIPE」とはチベットの言葉で、「日々静かに歩め」という意味である。日々静かに歩むということは、日々コツコツと同じことを繰り返す事なのかもしれない。僕はこれまで何かを固定(覚悟)することを避けてきた。自分がどの方向にでも動けるようにしておくことが安心だったのだ。つまりコツコツ同じことを繰り返すとは全く逆である。しかし、何か一つ歯車を固定させなければ、何も噛み合っていかない。ここ3年はそんな事を考え出し、自分が空転しているような感覚があった。もしくは問題を先延ばしにしているような感覚。自分は何を固定(覚悟)することができるのだろうか?土地、仕事、人、もしくはずっと旅を続けること。この旅の中でずっとそのことを考えている。まあ覚悟しても続かないかもしれないが(笑)

明日はダライ・ラマ14世の法話が行われる。それを聞いてこの街を離れようと思う。

※チベット仏教に関して資料をしっかりと読み、こちらの人と信仰についてもう少し考察して書きたかったのですが、旅先ではそれも難しいので、とりあえず今考えたことを残すという意味で日記に書きます。ですからこれは僕がその場で見て考えた浅い考察です。悪しからず。

2012年11月13日火曜日

ジャイサルメール




20121113日 ジャイサルメール


パキスタンとの国境まで100km、砂漠の街ジャイサルメールに来た。ここでの目的は駱駝に乗って砂漠を歩き、砂漠に泊まるキャメルサファリである。

ジャイサルメールを出てすぐ辺りは荒涼とした砂漠になる。砂漠といっても一面サハラ砂漠のように砂だらけというわけではなく、ポツポツと木が生えた乾燥した大地の中に鳥取砂丘クラスの砂丘がいくつかあるといった感じである。その風景は8年前に旅したモンゴルのゴビ砂漠を思い出させた。2人のキャメルマン(駱駝使い)3匹の駱駝で僕のキャラバンは出発した。辺りは何もない世界。もし数人で地元の話をしている中にこの砂漠出身者がいて、「地元何もないんだよね」と言われてしまえば、もう誰もそのワードは使えなくなってしまうだろう。それぐらい何もない。その中で人々は申し訳程度に積み上げられたレンガの家か、木の棒と布だけで作ったテント(というか日よけの屋根)か、もしくは木の陰に住んでいる。一見何の目印もないように見えるこの土地でも、ここに住む人たちはそれぞれの家の場所や家畜がどこにいるかも把握している。それがその土地に住むということなのだろう。2時間ほど駱駝に揺られて到着した砂丘を裸足で歩く。西の空には地平線に沈んでゆく太陽が見え、砂丘はオレンジ色に染められてく。地平線という言葉は日本ではなかなか実感がわかないが、ここでは定規で引いたような地平線を見ることができ、みるみる沈んでいく太陽を見ていると地球が回転しているのだと実感できる。

太陽が沈んでしまうとキャメルマンたちは焚き火をはじめ、まず美味しいチャイを入れてくれた。その後同じ焚き火でカレーを作り、チャパティというインドのパンも焼いてくれた。このチャパティは今までインドで食べたモノの中で一番美味しかった。しかし、カレーは尋常ではない塩辛さで、おかわりは丁寧に断った。太陽が完全に沈んでしまえば、辺りは真っ暗になり、空には満天の星空である。星空、砂漠、駱駝、焚き火、男が3人とこれば、話すことは1つしかない。そう下ネタだ。英語が苦手なのにも関わらず、下ネタだと理解できてしまうのは不思議なのだが、年配のキャメルマンがこのツアーで起きたキャメルマンと日本人女性ツーリストのアバンチュールを事細かに話してくれた。話に熱中する彼からふと自分の足元に目を移すと、なんとそこには野生の蠍がいたのだ。僕の足とは1cmしか離れていない。うわぁ!と大声を出すと、キャメルマンは瞬時に自分のスリッパを思い切り蠍に振り落とした。ビチャ!いう音と共に蠍は潰れたのだが、その液体が全て若いキャメルマンの服に飛び散った。彼も奇声を上げたのを見るとやはり蠍はローカルにとっても怖い存在のようだ。しかし年配のキャメルマンは気にせず下ネタの続きを話しだした。彼を制し、蠍はいっぱいいるのかと聞くと、「そんなにいない。火を焚いているから寄ってきたんだよ」と答え、また下ネタに戻る。今日はこの砂漠に布を直ひきし寝るのだ・・・・大丈夫なのか。そんな心配をよそに焚き火の火が消えるとキャメルマンたちは寝る用意をはじめた。まあ気にしてもしょうがないので僕も寝ることにする。
あんなにたくさんの流れ星を同時に見たのはそれこそモンゴル以来だった。寒さもあり何度か起きてしまったが、その都度目の前に広がる星空が変化していた。目の錯覚かもしれないが、辺りが明るくなるにつれ見える星は減っていき、今まで光って見えていた星のあとは黒い点になっていた。まるで空に穴が空いているようだ。それは星空より幻想的だった。

別れ際キャメルマンは、「もし君が日本に帰ってインド料理屋をやるなら俺を雇ってくれ」と言った。うーん、チャイとチャパティーは合格だが、あのカレーはアウトだ。