2012年11月19日月曜日

ダラムシャーラ





20121119日 ダラムシャーラ


ジャイサルメールから電車で18時間かけて首都デリーに戻り、半日時間を潰した後、バスで12時間かけて北インドのダラムシャーラまで移動してきた。

ダラムシャーラは標高が2000m近くもありかなり寒い。数日前までTシャツと短パンだけで過ごしていたのに、今は長袖にフリースを着て、さらにアウターを一枚羽織っている。それでも寒い。この気候の変化に完全にやられてしまい、ダラムシャーラに着いた翌日は激しい寒気と下痢が止まらなくなり、宿から全く動けなかった。弱っている時は元気な時の自分を忘れてしまうもので、もう旅を続けられないかもしれない、日本のみんなに会いたいと毛布に包まりながら考えていたのだが、翌日にはケロッと治ってしまった。昔から限られたスケジュールの中で予定を詰め込みすぎる癖があり、毎度のこと途中で倒れてしまう。そして反省しながらも同じことを繰り返す。元気な時は弱っている時の自分を忘れてしまうのだ。

体調も回復したので、昨日は早速トレッキングに出かけた。もう少し休めばいいものをほんとに懲りないのだ。片道3時間半程かけて標高2700mまで登った。そこは草原のような場所で、標高5000m程あるダウラーダール山系を望むことができる。現地で出会った日本人の友人は初登山で、装備の問題もありかなり疲れていたが、山頂からの景色を見た瞬間に「登山ええな」と漏らしていた。素晴らしい景色もまたそれまでの苦しい道のりを忘れさせてしまう。

ここダラムシャーラはインドにありながら、かなりの数のチベット人が住んでいる。というのもここにはチベット亡命政府が存在しているからだ。その歴史背景に関しては知っている人も多いと思うが、中華人民解放軍がチベットを軍事制圧したことにより、1959年にダライ・ラマ14世はインドに亡命し、ここダラムシャーラ(正確に言えばダラムシャーラの街の少し上にあるマクロードガンジ)にチベット亡命政府を発足した。それと共に数万のチベット難民もこの街に移住してきたそうだ。
チベットの人々を見ているとその信仰の深さに驚く。人々(特にお年寄り)は手の中で数珠の珠を動かしながらお経を唱え、マニ車を回しながらお経を唱え、お寺の周りを何度も回りながらお経を唱えている。同じことを繰り返しながらより良い来世、輪廻からの解脱を願う。似た顔をしているが信仰に関しては我々日本人とは全く違うように映る(もちろん一概にはいえない)。その差はなんだろうか?そう考えるとやはり土地の違いが浮かぶ。彼らチベット人が住んでいる(もしくは住んでいた)場所は高原で、放牧をしながら生活をしている。たくさんの資源に恵まれている私たちの国から見れば住むのが大変な土地だ。そこで生きる為には日々コツコツと同じことを繰り返していかなければならない。この繰り返しの生活に意味を見出す。「日々の生活、信仰の繰り返しがより良い来世に繋がる」そう信じることが人々にとって救いになるのではないか。以前旅したモンゴルにもチベット仏教を信仰する人は多い。なぜ離れた場所で同じ信仰をしているのかずっと疑問に思っていたが、あのモンゴルの平原を考えれば、同じことが言える気がした。
このブログのタイトルの「KALIPE」とはチベットの言葉で、「日々静かに歩め」という意味である。日々静かに歩むということは、日々コツコツと同じことを繰り返す事なのかもしれない。僕はこれまで何かを固定(覚悟)することを避けてきた。自分がどの方向にでも動けるようにしておくことが安心だったのだ。つまりコツコツ同じことを繰り返すとは全く逆である。しかし、何か一つ歯車を固定させなければ、何も噛み合っていかない。ここ3年はそんな事を考え出し、自分が空転しているような感覚があった。もしくは問題を先延ばしにしているような感覚。自分は何を固定(覚悟)することができるのだろうか?土地、仕事、人、もしくはずっと旅を続けること。この旅の中でずっとそのことを考えている。まあ覚悟しても続かないかもしれないが(笑)

明日はダライ・ラマ14世の法話が行われる。それを聞いてこの街を離れようと思う。

※チベット仏教に関して資料をしっかりと読み、こちらの人と信仰についてもう少し考察して書きたかったのですが、旅先ではそれも難しいので、とりあえず今考えたことを残すという意味で日記に書きます。ですからこれは僕がその場で見て考えた浅い考察です。悪しからず。

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