2013年2月18日月曜日

クラクフ→プラハ




2013218日 クラクフ→プラハ


ウィーンのバスターミナルで指定された番号の下で待っていたが、出発時間になってもバスが全くやってこない。その時ちょうどターミナルから出ていこうとするバスを見ると、ポーランドのワルシャワ行きと書いてある。嫌な予感がして動いているバスのドアを叩き、「これはクラクフに行きますか?」と聞けば、何も言葉を発さず頷かれた。間一髪だった。そんなこんなでポーランド南部の街クラクフに到着。着いたのは朝の4時だったため、バスターミナルも市バスも動いておらず、寒いなか2時間程待つ。

この街に来た目的はたった1つ。この街から1時間半程の距離にあるアウシュヴィッツ強制収容所に行くためだ。アウシュヴィッツに関しては説明はいらないだろう。第二次世界大戦時、ナチスドイツがポーランドの政治犯、ユダヤ人、同性愛者、ロマ(ジプシー)をヨーロッパ各地からここに輸送し、収容していた施設である。イスラエル以降ユダヤ人に関して考えたり本を読んだりする機会が増えていた為、ヨーロッパに行った際はアウシュヴィッツには寄ろうと考えていた。施設内に一歩足を踏み入れると辺りを包む空気が変わった。もちろんこれは僕のイメージが作り出したものだろうが、土地はそこで起きたことの空気まで記録しているような気がした。カンボジアでツールスレン博物館やキリングフィールドに行った時と同じように常に鳥肌がたち、写真を撮る気にはなれなかった。戦後、ニュルンベルク裁判で連合国側はナチスドイツがこの収容所で400万人を大量虐殺したと嫌疑をかけたが、現在その数字は信じられてはいない。様々な研究者が調査に入っているが、その数字は技術的に不可能だという結論が出されている。ガス室よりもチフスなどの感染病で亡くなった人がかなり多かったのではないかという説もあるそうだ。たとえ数字が減ったとしてもここでナチスがやっていたことは変わらない。しかし、ナチスドイツが一方的に悪いのか?ユダヤ人やロマや同性愛者が悪いという話でもなく、なぜドイツが第一次大戦後にそういった状況になっていったのか?それは他の国々が全く関係ないことではない。日本さえも。この一方的に原因や責任を押し付け、事件を解決させようという行為は戦争に限らず僕らの日常の中にも山のようにある。例えば何か残虐なニュースがあれば徹底的に犯人の素性を調べ、いかに変わった人間であったか、自分たちとは違った人間であったかを強調し報道される。ただそれは周りが安心したいだけなのではないか?ナチスもユダヤもロマも同性愛者も全て人である。僕と変わりはない。置かれる立場ひとつで人はどのようになってしまう。

クラクフには1泊だけしてチェコのプラハに向う。夜行バスがなく昼間に10時間半の移動。ヨーロッパは土地に起伏が少なくどこまでも同じような景色が続くため、窓の外を見ていても退屈してしまう(はじめは興奮していたが)23時頃プラハの宿に到着した。またまたビールを飲んで倒れこむ。プラハの観光客の多さは、今まで回ったヨーロッパの街の中で1番だった。しかし、意外に街は小さく1日もあれば回れてしまう。お隣の国の首都ウィーンとは全く違った顔を持っている。バスからの景色は似ているのに、街に入ると全く雰囲気が違うというところが面白い。

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