2013年1月22日火曜日

カッパドキア





2013122 カッパドキア


トルコ中央部にあるカッパドキアに移動してきた。カッパドキアは高原地帯で、数億年前に火山の噴火でできた地層が長い年月をかけて雨風によって侵食され、不思議な形の岩々があたり一面に広がる。また、その奇妙な形の岩に世紀前後からキリスト教徒たちが穴を掘り隠れ住むようになった土地でもある。二つの要素がなんとも奇妙な景色を作り出している。

到着後すぐにツアーに申し込み、街から離れた場所にあるキリスト教徒が隠れ住んだ地下都市や岩をくり抜いて作られた教会、住居跡を見学。ガイドの英語がほとんど分からず、聞き取ろうと必死になっているせいで肝心の遺跡をあまり見れていなかった。また翌日は近くの陶芸の産地アバノスへローカルバスに揺られ行ってみた。はじめは観光客向けのお店ばかりで、どの様にしたら制作風景などを見せてもらえるのか見当がつかなかったが、裏路地に入りキョロキョロしていると、そこら中の陶工が自然に声をかけてくれる。陶器の勉強をしていたと伝えると、会話の中に商売っけがなくなり、色々な作業風景や作品を見せてくれた。互いに英語がほとんどできないが、陶器に関することだとなんとなく理解できるから不思議である。毎度「長い旅の途中だから買うことはできない」と詫びると、「そんなことは問題ではない。お互い同じ作り手なのだから」と、逆にお土産まで持たせてくれた。ネパールに続いてひとつの物事を共有することで人はこんなにも仲間意識を持つことができるのかと感動する。

最終日はひとりで辺りを散策してみる。ツアーの時は説明が終わると移動という繰り返しだったが、自分ひとりなら時間を気にする必要は全くない。しかも寒すぎるこの時期(雪も降っている)カッパドキアはオフシーズンで観光客もかなり少ないのだ。時間と人の目から解放され、いろんなひとり遊びをはじめる。たとえば、残された痕跡から様々な事を想像する。ここは天井に煤が残っているからきっとキッチン。柩型の穴があるから墓場。岩の光沢具合から鍋などが置かれた場所。掘り方が雑だからやる気がないやつの仕事跡。掘り跡から掘って行く順序や使った道具なども想像出来る。もちろん間違っているかもしれないが、ツアーで教えてくれることも正しいかはわからないのだ。それに答えをすぐ求めるのはよくない。自分で考えることが大事だと自分に言い聞かせる(負け惜しみでもある)。

疲れたので岩の上に座り、不思議な岩々をただ眺める。少し先にある岩の形は絶妙なバランスで侵食していて鳥肌が立つほど美しい。頬にすっと風があたる。こんな風や昨晩降った雪などが本当に長い時間をかけて岩を削って目の前にある景色はできた。今日ここまで歩いてきた自分の行為もこの地形を少しずつ変化させていく。岩はこんな形になりたいと願ったわけではなく、ただそこにあったのだ。岩は岩としてそこにあったのでもない。やはり真理は自と他の境界がないところに見出すことができるのではないか。そしてそれを僕は美しいと思う。しかし、僕自身がそれをキャッチできる状態の時だけしかそれを感じることができない。いや僕自身もその自と他の境界のない状態に入り込んでいる時、すべてのものと共鳴するようにその美しさを感じることができるのだろう。今回はこの風景の中を黙々と歩く中で少しずつそちらの世界に入っていったのではないか。何が言いたいのだ・・・僕の言葉の引き出しでは表現しきれないが、今日感じたことが、この旅の中で見てきた人々の信仰心やひとつの土地で静かに暮らすこと、ひとつのことを続けることと頭の中で繋がっていった。

※最後ぐちゃぐちゃですみません。整理できてない頭の中にあることをメモった感じです。

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