2013年1月3日木曜日

エルサレム→テルアビブ




201313日 エルサレム→テルアビブ


2013年はイスラエルのエルサレム新市街で、たくさんのユダヤ教徒、日本人旅行者と久しぶりにビールを飲みながら始まった。不思議な気分である。しかし、年越しそば、お雑煮、こたつ、初詣・・・今まで当たり前だった日本のお正月がとても恋しい。

エルサレムはとても特別な土地である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地がここにあり、街は巡礼者や聖職者で溢れかえっている。この街、この国の歴史は非常に複雑でちょっと本を読んだぐらいでは理解できない。そしてその複雑な歴史の上に、今この国で起きている様々な問題もある。
宿でオーストリアから来たというおじさんに尋ねられた。
「君の中に神か悪魔かどちらがいる?」
僕は答えた。
「僕の中に神はいます。そして全ての中に神を見出すことが出来ると思います。しかし、全ての中に悪魔もいます。全ては二面だけでなく多面的で、けして分けられるものではないと考えます。」
彼はそれを否定する。
「神は一人だ。彼は全てを創造した人物だ。たくさんはいない。そしてひとつのコップの中に汚い水ときれいな水を一緒に入れることができないように、人間もどちらか一方に心を捧げているのだよ。」
僕の英語力ではちゃんと言いたいことが伝わったのか、また彼が言っていることを正確に理解できたのかは自信がない。しかし、どうしようもない距離がふたりの中にあることは明らかだ。以前このブログにも書いたが、結局自然に恵まれ、努力すればその分見返りを得ることが出来る土地に育った僕には、この砂漠の中から生まれた宗教、文化を理解することができない。(もちろん日本にも理解をしている人はいる)それは僕に話しかけてくれたおじさんが僕の感覚を理解できないのと一緒だ。

エルサレムの近郊にベツレヘムというパレスチナ自治区がある。イスラエル政府は、テロ対策という名目で、その周りに高い分離壁を建設した。パレスチナの人々はここを自由に出入りすることが許されていない。そんなエリアだが、このベツレヘムはキリストが生まれた場所とされているため、世界中から観光客が出入りする。そして分離壁も見ることができるのだ。分離壁には様々な落書きがされている。殆どは平和を願ったもので、イギリスのグラフティーアーティストバンクシーやフランスのフォトグラファーJRの作品もある。僕はその壁を歩ける限り見て歩いた。分離壁は目に見える形で存在する境界だ。その境界に対しての人々のアプローチは様々である。境界に対してそれぞれの置かれた立場でも違う。境界の向こう側に手榴弾を投げ込む者、絵画や音楽で境界をなくそうと訴える者、境界の重要性を訴える者、無関心な者、・・・自分はどうか?ちょうどイスラエルにいた時、いしいしんじの小説「東京夜話」(ネパールの古本屋で購入)を読んでいた。彼の境界に対するアプローチは僕にとってなんとも魅力的だ。境界の存在を否定するでもなく、肯定するでもなく、透明人間の様に境界を行き来し、どちら側でも同じ感覚で楽しんでいるようだ。これはなかなかできることではない。これはセンスの問題だろう。憧れるが僕はなかなかこの感覚を得ることができない。もちろん自分は虐げられているワケでもなく、虐げているワケでもない。そんな経験もないからのんきなことを言っていられるのかもしれない。でもそんなことはどうすることもできない。僕とオーストリア人のおじさんの距離のようにどうしようもない。様々な立場で様々なアプローチが必要だと思うのだ。

イスラエルでは他に大都会テルアビブにも行ってきた。有名なバトシェヴァ・ダンス・カンパニーの公演を着飾ったイスラエル人達と鑑賞し(これは恥ずかしかった、僕の服はだいぶ汚ない)、翌日はテルアビブ美術館に行った。どちらもとても刺激的で、満足のいくものだった。壮大な自然、過去の偉大な文明の遺跡も面白いが、僕は同時代に生きている人が何を考え、それをどのようにアウトプットしているかが気になる。その後エルサレムに戻って行ったイスラエル博物館も建築、コレクション、展示すべてが素晴らしく、大好きな芸術家の作品も何点か展示されていてちょっと泣いてしまったほどだ。

イスラエルに対して日本人は危険というイメージを持っているだろう。観光資源の多さに対して、日本人ツーリストの数も少ないように感じる。しかし、この国には本当にたくさんの人種、宗教、歴史、文化が存在し、もう絶対紐解けないぐらいに絡み合っている。どの紐をひっぱても他のところが絡まってしまう。だからこそとても刺激的で、考えさせられることも多い。ぜひ皆にも行ってほしいと思った。僕は何の保証もできないけれど・・・。




Batsheva Dance Cmpany



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