2011年5月31日火曜日

5月が終わる


ここ何日もBLOGを更新できていなかった。
一度リズムが崩れると、ついついめんどくさくなってしまう。

あっという間に5月が終わった。
たくさんの人に会い、たくさんの酒を飲んだ月。

震災からもうすぐで3ヶ月が経とうとしている。今日現地でボランティアをしている友人からメールをもらった。とにかく人手がほしいとのこと。いつでも歓迎するから来てくれと誘いをもらう。実際問題、仕事を長期間休むのは難しい。考え方によるのだろうが、今自分が抜ける事で同僚が被る迷惑の方が、自分にとってはリアルなのだ。関西に住む人間にとってテレビやラジオ、新聞、インターネットを見なければ、何ら変わらない普通の日常である。(もちろん職業によるが)それはけして悪い事ではない。
しかし、みなどこか浮ついている。これでいいのだろうか?と思いながら毎日を過ごしている。だからお酒の量も増えている気がする。

さあ、どうする?

2011年5月25日水曜日

絶対な存在


京都(どちらかというと左京区)に暮らしていると、いつも目にするものがある。
それは比叡山と鴨川である。私は毎朝出勤時に比叡山を見上げる。
「今日は雲がかかっているな」「緑が濃くなってきたな」「雪化粧をしているな」
などと思いながら、その日一日がんばろうという気持ちになる。
同じように鴨川を見るとき、心が落ち着くのがわかる。
この二つは私にとって絶対的な存在である。
日々変化はしているが必ずそこにある。絶対的な自然。
生まれ育った岐阜ならば長良川。母の実家滋賀ならば琵琶湖だろう。
その土地の人は、山、川、湖、海などの話をする際、母親の前の子供の様になる。
優しさも恐ろしさも兼ね備えたそれは心の拠り所、土地の象徴になっているから
ではないか。まさに母親そのもの。

大阪、名古屋、東京(中心地)などに行くと心がやたら忙しなくなってしまうのは、
この絶対的な存在がすぐに見当たらないからではないか。
人が作ったものに囲まれている。安定と言われているあまりに不安定なものたち。

2011年5月22日日曜日

後半盛り上がる


今日は、朝雨が降っていたため、当初の予定がキャンセルになり
お昼過ぎまでは家で本を読んで過ごした。

夕方友人から話があると言われ、なじみのカフェで会う。
話を聞くと展覧会をやらないか?ということだった。
今年はまだ発表の機会が決まっていなかったので、とりあえず
了承はしたが、展覧会の日程やプラン、場所もまだ不明確のもので
これからなかなか大変そうである。

夜は別の友人からの電話で、これまた展覧会の誘い。
こちらは規模がとても大きなものだが、行政が絡んでいるので、これからの
やり取りがなかなか大変そうである。予算もほぼ付いていないようだ。
話をもってきてくれた友人は困り果てていた。

昨年、滋賀県で大きな芸術祭に参加した際も、会場とのやり取りや
出展者間の連絡、広報、メディアへの露出などなかなか大変だった。
何かここ最近、そういったものが多い。きっと乗り越えなさいということだろう。
人に声をかけてもらう、頼ってもらうというのはすごくうれしい事だ。
そして、それに対してはちゃんと返そうと思う。あいてが望む以上のことを
したい。それがのちのち自分にも返ってくるだろう。

いやはや、午前中はなんてことのない休日だったが、午後からはどっと肩が
おもくなった(笑)体がなまっている証拠だ。動き出そう。

2011年5月21日土曜日

ただ、悩む


人生は悩んでばかりである。今日はそんなぼやき。(はずかしい内容)

京都に来て8年目。まさかこんなにも長くこの街にいることになるとは思わなかったが、現在の仕事も残すところ11ヶ月程となり、そろそろ今後の事を考えなければならない。

「何になりたいの?」という質問をたまにされる事がある。陶芸家?芸術家?思想家?教育者?システムエンジニア?グラフィックデザイナー?正直何一つとして「それです。」と言えるものはない。そういう固有名詞は、単なる認知のための標識にすぎないという考えがずっとあるし、職業に限らず、それに固執して頭の固い人を見ると、こうなりたくないなとつくづく思う。様々な境界(人がつくったもの)を飛び越えていく人間こそが本来の人間のあるべき姿なのではないか?
一方でこの言い種は、“何か一つに決めきれない”“勝負を仕掛けられない”言い訳なのではないか?と思う時がある。自分は器用貧乏でそれなりに何でもこなせるが、何においても突出しない。「自分は何がしたいのか?できるのか?」という状態によくなってしまう。

しかし、人にとって最も大切な事は何か。どんな生活をするべきか。どのような事を世の中に訴えていきたいか。などは明確である。それは生きていくためのコアであり、思春期に与えられた人生の課題だ。中学生の頃からずっと考えているし、考えを更新していくために、様々な土地を周り、様々な人に会ってきた。それは今の自分の自信になっており、すべての判断基準もそれに則している。

はて?では何を迷っているのか?
結局は、社会的に様々な責任を負うべき年齢になってきて、同世代との比較やお金がすべての物差しになっている世間に対して焦りを感じてしまっているだけなのだ。わかりやすく今私はこんな事をして、これだけ稼いで、こんな将来像をもっていますよと言わないといけない気がしていただけなのだ。人から見える表層の部分は、どうしても気になってしまうものだ。書きながらわかってきた。
 自分に正直に動いていけば、目の前に進むべき方向、乗り越えるべき課題、守るべきものは出てくるだろうし、それをこなしていくしかない。すべては諸行無常であって、いくらプランニングしたってうまくいかないことだらけだ。それは自然の真理
で、人間が自然だからどうしようもない。

なぜ、悩みだしたかといえば、自分とはどんな人間なのかをまとめて文章化し、外国に送る必要があるからで、それがうまく行けば外国に行けるかもしれないからである。そう、すでにやるべき事は目の前にある。

でもね、弱気にもなってしまいますよね。それが人ですよね。(笑)

2011年5月19日木曜日

ウエサク祭

5月17日は満月だった。

友人から、
「今回の満月は特別であり、京都の山奥鞍馬寺で“ウエサク祭”という祭があるから行こう。」
と誘われ、仕事終わりに天狗で有名な鞍馬寺まで、叡山電車に揺られて向かった。
祭は本堂で行われるため、電車を下りてから、20分程山道を登る。
祭というので出店などがあるのかと思いきや、あたりはひっそりとしていて、本堂までの山道は真っ暗であった。途中、手に小さな火を持った人とすれ違いながら、上で何が起こっているのかまったく見当がつかない。

やっと登りきったその先には、想像とはまったく違う光景が広がっていた。そこには何百という小さなひかり(心の灯火というらしい)が境内いっぱいに灯され、みなその火を見つめているのである。その光景は唖然とするものだった。


しばらく、あたりの様子をうかがっていると、私たちが着いた時間はちょうど第一部が終了した時であり、もうすぐ第二部が始まるらしい。人だらけの境内でなんとか場所を確保し待っていると、第二部の開始が告げられた。指示されるがままに、何百人が満月の方を見て座り、小さな鐘の音に続いて、パーリー語のお経が読まれる。そのお坊さん(スリランカの方もいらっしゃった)の小さな声が、いくつも重なって、あたりは不思議な空気になる。信じられないが、境内一杯の人々が静まり返り、みなお経を聴きながら、月に向かって瞑想しているのである。
一切予習をしてこなかった私たちは見よう見まねだが、この空気感を共有しているだけで、とても神聖な気持ちになっていく。

45分程で瞑想が終了し、境内の真ん中に盛られた、植物の山に火がつけられ、大きな炎と煙が満月の夜空に昇っていった。実はこの祭、朝まで続くらしく、翌日の仕事を控えた私たちは終電ぎりぎりで下山し、帰路についた。京都8年目にして、初めてこの祭りの存在を知った。とことん奥の深い土地である。ちなみにこの祭りは世界中で行われているそうである。

※この祭は、祈りの間撮影は禁止されている。写真はインターネットから拝借した。
※下記は鞍馬寺による説明(興味持った方はちゃんと調べてみて)


【五月の満月には天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーがふりそそがれるという。この夕、満月に清水を捧げ心のともし灯を輝かせつつ、ふりそそがれる神秘的なお力を身に受けて、自分とすべてのものの「めざめ」のための熱い祈りを捧げるのが、光と水と聖音の祭典「五月満月祭(ウエサクさい)」である。
祭典は三部に分かれ、第一部は「きよめ」の祈りで、祭典に集う人々は、まず自己と場の浄化のために魔王尊を讃仰(さんごう)する。月が天頂に近づくころ、ひとりひとりが持つ純粋無垢な心の象徴の「心のともし灯(び)」に灯が点(とも)される、祭場がともし灯に埋まると、銀碗に清水を満たし月に祈りを捧げる。
次にともし灯を高く掲げて、真実に生きぬくための強い力を与え給えと「お力の宝棒」の加持(かじ)を受け、月光のふりそそがれた明水をわかち頂き、慈愛のみ恵みを心に満たす。そして第二部では、月光を受けながら大地に腰をおろし静かに「はげみ」の瞑想を行い、夜明けの近い第三部には、智慧(ちえ)の光を輝かせ真実に生きることへの「めざめ」を象徴する聖火が天を衝(つ)いて上がる。
最後に全員で『心の書(ふみ)』を唱え魂の夜明けを迎える】

2011年5月16日月曜日

東京ツアー


週末を利用して東京へ

目的は、普段からお世話になっている先輩ふたりの展覧会を回ること。そして、東京で暮らしている親族や友人たちに会うこと。

行く前から聞いていたのだが、東京は真っ暗だった。昼間の地下鉄は半分ほどしか電気がつていないし、エスカレーターも至る所で止まっている。友人の話では会社も早く退勤させられているようである。また、2週間ほど前までコンビニの棚は午後には何もないような状態だったらしい。節電でライトもついていない、商品も並んでいない棚の写真は異様であった。
東京でも震度3程の余震はしばらく続いていたようだが、みな揺れに慣れてしまい、3ぐらいでは会議なども中止しなくなっていたそうである。
関西で普通に生活する分には、今回の震災の目に見える影響はほとんどない。(もちろん目に見えない精神的な影響はある)東京に来て、被災地に少し近づいて、震災が多少身近なものになった。それほどテレビや新聞、インターネットを見ているだけではリアリティーがなかった。

関東のみんなは元気そうでよかった。しかし、親族•友人も何人かは関西へ引き返してくる。なにか大きく変わっていく。

何よりも東京にいて、ここから200〜300km離れた場所では、被災地があるということを常に意識した。関西にいてもけして忘れてはならない。常に意識をし続けなければ。

2011年5月15日日曜日

おと とし


春は田植えの季節である。田んぼには次々に水が入る。夜、月明かりが揺らめく田んぼは、まるで海のようだ。田んぼ道を行く車は、ヘッドライトが長く伸びまるで船だ。

また、田んぼに水が入るとカエルが夜な夜な大合唱をする。高校の頃までは、街灯もない田んぼの一本道をカエルの声を聞きながら家まで帰っていた。地元は1年中いろんな声や音が聞こえている。キジの声、虫の声、山の音、川の音、田んぼの音、水路の音‥‥京都に出てきてからあまりそういった音を聞いてない気がする。今も窓を開けているが、聞こえてくるのは雨の音だけである。(それはそれでいいのだが)

外の音がしない分、できた空白を音楽を聴いて必死に埋めているような気さえする。音楽はすばらしい。ないと生きていけないぐらい、毎日時間ができれば音楽を聴いているし、ライブでだってたくさんの快感を味わってきた。しかし、都市をでて、自然の音を意識したとき、自分の気持ちが急に安定していくのを感じる。イヤホンをしていることがもったいない。

これだけ都市にどっぷり使った生活をしながらも、やはり自分は都市に対してどこか否定的になってしまう。それは難しいことうんぬんもあるけれど、やはり自分が一番安心できる場所が都市ではないからだろう。

2011年5月10日火曜日

夕方


毎日書くと宣言しながら2日間もあいてしまった・・・・
さあ、気を取り直して。

昨日は久々に仕事が明るいうちに終わり、家まで歩いて帰った。
帰る間に空気は徐々に青みを帯び、西からのオレンジの光は
徐々に弱まり、やがて消えていった。

この夕方の時間が私は特別好きである。
テンションが上がるというようなものではなく、ものすごくセンチメンタルな気分になる。
あの夕方の空気は、感動と同時に各家庭の晩御飯の匂いや、遊んでいる子供を呼ぶ母親たちの声を私の記憶の奥の方から引っ張り出す。

こんなにもセンチメンタルになるのは一日が終わってしまう悲しさのようなものではないか。歳をとっていくうちに、行動する時間は伸びていき、太陽への名残惜しさは少なくなっているのに。夕陽を見ながら泣きそうになっている自分は、幼少の頃に戻っているのだろう。私は原風景の中をとぼとぼと歩きながら、家に帰った。




2011年5月7日土曜日

やたら広い喫茶店


今日は大学時代の後輩と山へ向かった。

だらだらと2時間ほどトレッキングをして、見晴らしのきく尾根で
コーヒーとパンを食べながらおしゃべり。
彼は3月末まで山形で生活していたため、災害後の現地の様子などを聞いた。
また、お互いの将来の夢や恋人の話などをぺちゃくちゃしていたら、あっという間に
1時間が経過していた。まるで、喫茶店やカフェで話す主婦や女の子のようである。

コーヒーを飲むためや、本を読むために山道を歩きお気に入りの場所を見つける。
誰を気にするわけでもなく、好きな格好で好きなだけくつろぐ。
これは何と贅沢なことか。お金もほとんどかからない。
幸いそんなことが好きな友人に囲まれ、一緒に楽しむことができる。
この遊びを覚えれば、どんな場所も喫茶店、図書館になり得る。
もっと言うならばトイレ、寝室、台所、バスルームになり得る。
それはあほらしいかもしれないが、本当に大切なことではないか?
すべてが完璧に整い、しかも清潔に保たれた状態でないと生活できないというのは、
生き物として弱い。

そんなことも話しながら、また2時間ほど山の中を歩き家に帰った。


2011年5月6日金曜日

まちくさ博士


昨日はGW最終日(そうじゃない人もたくさん)天気は快晴で、
京都の街は人人人。自転車で移動するにも苦労する。

そんな中、友人の展覧会を見に行った。
彼は自ら“まちくさ博士”と名乗り。街の中にある雑草に、本来の呼び名や学名ではなく、
生えている環境や状態からインスピレーションを得て名前をつけるという面白い
ワークショップを行っている。(まちくさワークショップ)
ワークショップだけにとどまらず、以前から街草図鑑という本を作ったり、名付けた草をトレーディングカードやバッヂしたりしていたのだが、それに加え今回は、"まちくさの歌""まちくさマン""まちくさ体操"と、ものすごい広がりを見せ、よりたくさんの人を、彼の作品に引き込んでいた。

彼の作品はモノと言うより、新しい視点の提案である。ワークショップに参加した人は、しばらくの間、草を見つければ名前をつい付けたくなってしまうだろう。それは毎日の通学や通勤を楽しくする。そして、様々な物事の中に楽しさを見いだせるようになったのなら、それは最高に幸せなことではないだろうか?この提案はアーティストにとって重要な仕事のひとつだと感じた。

まちくさHP

まちくさ日記

2011年5月4日水曜日

火の前、陽の中



GWも後半になった。

昨日は、仲間10名程で山で焚き火をした。
仲間と言ってもそれぞれ初対面か2回目に会うという人がほとんどである。
火は不思議だ。はじめは緊張していた空気が、寒さを凌ぐために
肩を寄せ合い火にあたっていると、だんだんと和らぎ、
最終的にはずっと前から友達だったような気さえしてくる。
火を囲むという原始的な行為は、今も人々の心を捉えて離さない。
みな火を見ながら、ついつい深いところまで話は進んでいく。

一夜明けた今日は、家具職人の友人と久々に会った。
彼は昨年大きなけがをしてしまい、今後、今の仕事を続けられることは
できないという。ほんの一瞬の出来事が、彼の人生を180度変えた。
彼は「けがをして良かった点もたくさんある」と言う。
ゆっくりと考える時間が持てたこと。恋人と過ごす時間がもてたこと‥‥etc
日常生活にも支障をきたすような大きなけがをしながら、彼は陰ではなく陽を見る。
「なぜ自分が」と怨嗟しても、起こった事実は変わらない。そう口にしたところで
世界はより曇って見えるだけである。彼は世界がどのように見えるかは、自分
次第ということを感覚的に心得ている。
ちょうど午後の陽が喫茶店に差し込む中で、目にうっすらと涙を浮かべながら
話す彼が崇高に見えた。

2011年5月2日月曜日

東海ツアー


GW前半を使って愛知、岐阜へ

岐阜出身の私にとっては、東海地方というのはすべてのベースになっている土地である。
どんな場所に行っても、必ず比較対象になる。
今回はまず、家族に会ってから、他の地域出身で、現在東海地方に住む友人二人に
会いに行った。ここで育ち、出て行った私とは逆の視点を持った友人である。

名古屋在住の友人を車で拾い、岐阜県の多治見という陶器の産地に行く。
大学時代陶芸の勉強をしていたため、多治見には沢山の友人が住み、制作に励んでいる。
友人の言葉を借りれば、「陶芸的視点で地図をみれば、多治見は東京」だそうである。

友人達とこの土地を周って感じたことは、視点によってそれぞれ感じること、
見えているものは全く違うということである。
当たり前のことなのだが、人と話をしないと、ついつい自分の視点が一般的だと思ってしまう。
陶芸の街にすみ、日々様々な陶芸家と接する友人、今まで陶芸に興味を持ったことのない友人、京都の芸術大学に勤め、客観的に陶芸界を見ている自分。一つ一つの事柄にみんなで意見を出し合うと、物事はより立体的になってくる。

自分の生まれ育った土地のまた違った一面を見れた気がする。