2013年1月26日土曜日

パムッカレ→イズミル→ギョクチェ島→チャナッカレ




2013126日 パムッカレ→イズミル→ギョクチェ島→チャナッカレ


カッパドキアからパムッカレという巨大な石灰棚で有名な場所まで移動してきた。このルートはトルコの黄金ルートで、日本人や韓国人のツアー旅行者も多い。石灰棚は既に中国の雲南省で見ていたが、その規模はまるで違った。不気味なほどにでかい。しかし、僕が興味を持ったのは、その石灰棚の上に広がる巨大都市遺跡ヒエラポリスだった。オフシーズンのためただでさえ観光客は少ないのだが、ここパムッカレではほとんどの人が石灰棚に集中するため、遺跡の方にはほとんど人がいない。広大な野原にかつて建物を形成していた石がたくさん転がっており、よく見るとそれが柱だったり棺桶だったりするのだ。ゆっくりと散策した後、かつてこの街のクリスチャンにとって最も神聖だったという聖職者の墓に腰掛け、麓の街で買ったパンをほおばる。ここからは遺跡をを一望することができる。その半分以上野に帰っている遺跡はとても美しかった。石や木、土などの素材は果てしない時間を経て僕達の前にやってくる。そして人間はそれを加工し様々なモノを作るのだが、この景色を見ていると、その人間の行為もまた、風や水がその素材を削っていった様に大きな時間の流れの中のひとつの運動でしかないように感じる。加工されたモノはその姿をずっと留めるワケではなく、その後も変化をしていくのだ。なんとなくカッパドキアで考えていたことと繋がっていく。

パムッカレはさほど大きな場所でもないので、一日もあれば全て見ることができてしまう。僕は今月いっぱいトルコにいると決めているので、ゆっくりしようとこの街に2泊したのだが早々に時間を持て余してしまった。次にどこに行くかを決めなければ・・・地図を広げるがここだという決め手がない。遺跡はそこら中にあるが、これまででお腹いっぱいになっていた。ぼーっと考えているとネパールの山中で読んでいた本を思い出す。それはかの有名な村上春樹が40歳を目前に3年間海外生活をした際のエッセイまたは旅行記のようなものだった。その本の中で彼が、冬にエーゲ海に浮かぶギリシャの島々で生活する章があるのだが、彼は冬にエーゲ海の島に行くなんて、一人で黙々と小説を書きたい作家でなければ意味がないと書いていた。よし、どれだけ意味がないのか見に行こうと思い立ち、トルコ領の島を調べ、トルコ最大にしてギリシャに最も近い島“ギョクチェ島”に行ってみることにする。情報ではシーフードが美味しく、ワインの産地と書いてある。期待が膨らむ。

パムッカレからイズミルというトルコ3番目の都市で乗り換え(7時間待つ)、大陸側の港町チャナッカレに向かう。バスが着いたのは朝6時。バスを降りて港に向かおうとしたが、英語がほとんど通じない。ただただ港の名前と目的地の島の名前を連呼していると、おじさんがこのバスに乗れと教えてくれる。そしてバスを降りるとおじさんが違うおじさんに
「このチン(中国人)がギョクチェ島まで行きたいらしいから、フェリーに乗せてやってくれ」
と頼んでくれる。島まではそれからフェリー、バス、フェリーと乗り繋ぐのだが、僕はたくさんのおじさん達によって荷物がごとく運ばれていった。ここでお茶を飲んでいろと言われればお茶を飲み、おじさんが世間話に花を咲かせれば横にただ立っていた。その流れに乗っているのが面白く心地よかったのだ。何か旅情のようなものを感じ、それに浸った。

そんなこんなでパムッカレから24時間かけてギョクチェ島に到着したのだが、最も栄えていると情報にあった海岸の村はレストラン、ホテルなど全て閉まっていた。仕方なくローカルの人々が買い物などをする内陸部に移動し、高い宿にチェックインしたのだが、辺りにはレストランが数件とスーパーマーケット、銀行が少しあるぐらい。街歩きは20分もかからない。オリーブと牧草地の間の一本道をひたすら歩きとなり村まで行ってみたが、ここもカフェが2件ほどあるばかりだった。村の家々は古く、見ていて面白いのだが、小さいのですぐ見終わってしまう。期待していたシーフードレストランも閉まっており、一人のお酒も美味しくないのでやめた。

結論を言えば「冬にエーゲ海の島に来てもさほど楽しくない」といった感じだろうか。しかもずっと雨だったのだ・・・・


◆「遠い太鼓」村上春樹 

2013年1月22日火曜日

カッパドキア





2013122 カッパドキア


トルコ中央部にあるカッパドキアに移動してきた。カッパドキアは高原地帯で、数億年前に火山の噴火でできた地層が長い年月をかけて雨風によって侵食され、不思議な形の岩々があたり一面に広がる。また、その奇妙な形の岩に世紀前後からキリスト教徒たちが穴を掘り隠れ住むようになった土地でもある。二つの要素がなんとも奇妙な景色を作り出している。

到着後すぐにツアーに申し込み、街から離れた場所にあるキリスト教徒が隠れ住んだ地下都市や岩をくり抜いて作られた教会、住居跡を見学。ガイドの英語がほとんど分からず、聞き取ろうと必死になっているせいで肝心の遺跡をあまり見れていなかった。また翌日は近くの陶芸の産地アバノスへローカルバスに揺られ行ってみた。はじめは観光客向けのお店ばかりで、どの様にしたら制作風景などを見せてもらえるのか見当がつかなかったが、裏路地に入りキョロキョロしていると、そこら中の陶工が自然に声をかけてくれる。陶器の勉強をしていたと伝えると、会話の中に商売っけがなくなり、色々な作業風景や作品を見せてくれた。互いに英語がほとんどできないが、陶器に関することだとなんとなく理解できるから不思議である。毎度「長い旅の途中だから買うことはできない」と詫びると、「そんなことは問題ではない。お互い同じ作り手なのだから」と、逆にお土産まで持たせてくれた。ネパールに続いてひとつの物事を共有することで人はこんなにも仲間意識を持つことができるのかと感動する。

最終日はひとりで辺りを散策してみる。ツアーの時は説明が終わると移動という繰り返しだったが、自分ひとりなら時間を気にする必要は全くない。しかも寒すぎるこの時期(雪も降っている)カッパドキアはオフシーズンで観光客もかなり少ないのだ。時間と人の目から解放され、いろんなひとり遊びをはじめる。たとえば、残された痕跡から様々な事を想像する。ここは天井に煤が残っているからきっとキッチン。柩型の穴があるから墓場。岩の光沢具合から鍋などが置かれた場所。掘り方が雑だからやる気がないやつの仕事跡。掘り跡から掘って行く順序や使った道具なども想像出来る。もちろん間違っているかもしれないが、ツアーで教えてくれることも正しいかはわからないのだ。それに答えをすぐ求めるのはよくない。自分で考えることが大事だと自分に言い聞かせる(負け惜しみでもある)。

疲れたので岩の上に座り、不思議な岩々をただ眺める。少し先にある岩の形は絶妙なバランスで侵食していて鳥肌が立つほど美しい。頬にすっと風があたる。こんな風や昨晩降った雪などが本当に長い時間をかけて岩を削って目の前にある景色はできた。今日ここまで歩いてきた自分の行為もこの地形を少しずつ変化させていく。岩はこんな形になりたいと願ったわけではなく、ただそこにあったのだ。岩は岩としてそこにあったのでもない。やはり真理は自と他の境界がないところに見出すことができるのではないか。そしてそれを僕は美しいと思う。しかし、僕自身がそれをキャッチできる状態の時だけしかそれを感じることができない。いや僕自身もその自と他の境界のない状態に入り込んでいる時、すべてのものと共鳴するようにその美しさを感じることができるのだろう。今回はこの風景の中を黙々と歩く中で少しずつそちらの世界に入っていったのではないか。何が言いたいのだ・・・僕の言葉の引き出しでは表現しきれないが、今日感じたことが、この旅の中で見てきた人々の信仰心やひとつの土地で静かに暮らすこと、ひとつのことを続けることと頭の中で繋がっていった。

※最後ぐちゃぐちゃですみません。整理できてない頭の中にあることをメモった感じです。

2013年1月17日木曜日

カイロ→イスタンブール




2013117日 カイロ→イスタンブール


エジプトの首都カイロ。ナイル川の下流域のデルタ地帯にあるこの街は、言うまでもなくエジプト文明が起こった場所であり、建築方法や使用目的などで今だに多くの謎を残したピラミッドがある場所である。ダハブからテロリストの巣窟などと言われるシナイ半島を抜け(途中パスポートチェックや犬による荷物チェックなどあり)この街に着いたのだが、まずその喧騒、空気の汚さにインドを思い出さずにはいられなかった。翌日に歩いたイスラム地区に関してはおしっこの臭いやゴミだらけの路上、牛ではないが馬がたくさんいるところなどインドそっくりである。最近も国民投票がありデモが行われたようだが、2年前の“アラブの春”の際に燃やされた大きな建物もそのままの姿で街の中心部に残っている。歩いていても危険は感じないが、なかなか不安定な街のようだ。

エジプトではナイル川上流にあるアスワンという街まで行き、そこからゆっくり川に沿ってカイロまで下りてきたかったのだが、移動に予想以上の時間がかかることが分かったため飛行機の関係で今回はその計画を諦めることにした。カイロには4日間滞在し、ピラミッドや考古学博物館、モスクなどを見て回る。しかし、ピラミッドも考古学博物館も感動するものではなかった。ピラミッドに関しては本やテレビで見るのとさほど変わりはなかったし、考古学博物館は収蔵量の数、スケール共に申し分ないのだが、展示があまりにお粗末だった。キャプションさえも付いていないので、ガイドブック等がなければ何が何だかさっぱりわからないだろう。しかし、エジプトでは出会いに恵まれ、友人たちと安くて美味しいご飯やシーシャ(水タバコ)をふかしながら様々な話をした。旅について、日本について、これからについて、怖い話、エロい話とどんどん話題が出てきて気がついたら一日が終わっているような時もあったほどだ。街ゆく人々を眺めながらオープンテラスで過ごしたそういった時間はとても有意義なものだった。

そして昨日、2時間のフライトを経てトルコのイスタンブールにやってきた。カイロから来るとイスタンブールの街がとても落ち着いて見える。同じイスラム圏でもヨルダン、エジプト、トルコは全然違う。イスタンブールの街並みはまだ見ぬヨーロッパを想わせるが、そういった風景の中にたくさんのモスクがあるのは興味深い。街中の女性の数も圧倒的に多い。日本にいた時はイスラム教に対して規律が厳しく皆それを同じように守っているというイメージを持っていた。しかし、同じ宗教でも信仰の形、度合いはそれぞれの国または個人で違う。カイロでは毎日5回の祈りの為におでこにあざがあるおじさんをたくさん見かけた。そういった違いに気づけただけでもこの3カ国に来てよかったと思う。これから2週間ほどかけてトルコを見てまわる予定だ。

トルコに到着した日の夜は雨が降った。記憶が正しければカンボジア以来3ヶ月ぶりの雨である。人生の中でこれだけ期間雨を見なかったことはない。

2013年1月12日土曜日

ダハブ




2013112日 ダハブ


最後の太陽光を求めて訪れたダハブでは、到着翌日から寒波に見舞われてしまった。激しい風で街中の看板などが倒れ、海も前日の穏やかな表情とは打って変わり激しく波打っていた。海とは逆に目を移せば、砂漠の砂が舞い上がり、はっきりと見えていたはずの禿山はぼんやりと輪郭を確認できる程度だった。

前回のブログでも書いたが、この街はダイビングで有名な街である。世界の中でも比較的安くライセンスを取得できるということで、それ目当ての短期旅行者、長期旅行者が集まってくる。しかし、そんな街でダイビングをしないとなると、正直やることは全くない。海に惹かれないと言いつつも、一度ぐらいは入ってみようと思っていたのだが、この風と寒さでは入れない。結局僕はひたすら本を読んでいた。こんなところまで来て何をしているのかという後ろめたさもあるのだが、バタバタと激しく揺れる窓の音を聞きながら宿の中にいると、まるで暴風警報で学校が休みになったかのような感覚になり、それならばしょうがないと自分を納得させていた。11冊は読んでいただろうか。体はエジプトにいながら頭は、上海、東京、伊豆、京都、フィレンツェと次々に世界を旅していく。航空券の値段を比較したり、バスのチケットのために長蛇の列に並ぶ必要はない。たまに僕は体を移動させることより頭を移動させるほうが好きなのではないだろうかと思うほどだ。

結局一度も海に入ることができないまま、僕は移動の日を迎えた。朝から準備を進めて、あと1時間でバスが出発という時、最も恐れていたことが起こった。この問題は小学校の頃から常に僕につきまとい、ストレスを与え続ける。宿の方にいただいたガムを噛んでいた時である。グニャグニャと連続したリズムの中にガチャリという気持ち悪い音と石を噛んだ様な感触がした。もう確認するまでもなく何が起こったかわかった。歯だ。半年前、レタスの収穫中に同じようにガムを噛んでいたら、以前治療した歯が取れてしまい、親方に無理を言って歯医者に行ったことがあった。あの時、僕は歯医者に散々確認した。「これから長い時間旅に出ますので、しっかり治してください」と。しかし、起きたことはしょうがない。対処を考えないといけない。初めにどこで治療するかを考えた。これから向かう街ではなく、エジプトの首都カイロがいいのではないか。それとも次に行くトルコか。いやヨーロッパの方が安心できるかもしれない。一応宿の方に近所に歯医者があるかと聞くと、以前も滞在者が見てもらった歯医者があるという。抜けた状態でいるのはとにかくストレスが溜まるので、とりあえず一時的にここで治療をしてもらうことにする。さて海外の歯医者とはどんなものか?予約もなしに訪れると歯医者は軒先で友達と談笑していた。僕が抜けた歯を指差すと、彼は全てを理解しというふうに首を横に振り中に入れという。中には見慣れた歯医者の椅子とやたら若い女の子(歯科助手)がいた。口の中を確認した歯医者は、完全に治すなら何回か通う必要があるが、医療用の接着剤でとりあえず引っ付けることもできると言う。どこまでもつかは分からないが、とりあえず引っ付けてもらうことにした。女の子が接着剤を粉から作るのだが、医者に甘えた様子で「こうでしたっけ?」テヘッと可愛い笑顔で質問をする。医者もニヤニヤしながら「いい感じゃないか」というようなことを言う。大丈夫なのだろうかという僕の心配をよそに歯は無事くっついた。最後には数多くある口内の治療跡を二人で眺め、「いやーよく治療されてるね、日本は進んでるな」と感心していた。不安は残るがいい体験をしたと思う。

おかげでバスを逃してしまいもう1泊する羽目になったのだが、翌日は風もやみ比較的暖かかったので海に入ることができた。生きた珊瑚と見たこともないような魚たち。その造形の面白さ、また山とは違うそれぞれの距離感、そしてその間に生まれる緊張感に素直に感動してしまった。寒いので30分ほどしか海の中にいなかったのだが、なんでもやってみるものである。こうして大陸の上を少しずつ移動し、体で地球の大きさを把握したい思っていたが、地球のほとんどの部分はこの全く知らない海(内陸に育ちあまり海と接する機会がなかったため)が占めているのだ。そう考えると、この星の大きさというか深さを感じ恐ろしくなってしまった。

2013年1月8日火曜日

アンマン→ペトラ→アカバ→ヌエバア→ダハブ




201318日 アンマン→ペトラ→アカバ→ヌエバア→ダハブ


年明けすぐにイスラエルのエルサレムからヨルダンのアンマンに戻る。入国のめんどくささ(僕は大して時間はかからなかったが)に比べて出国はあっけないものだった。1日休んだ後、南に向かって移動をはじめる。

早朝630のバスで出発。アンマンを出てすぐに辺りは荒涼とした砂漠になる。この国の国土の殆どは砂漠なのだ。この景色は僕が27年間見てきた景色のどれとも違っている。全く知らない世界。3時間ほどでヨルダンの世界遺産ペトラへ到着。ペトラは遊牧民ナバテア人の都市で、交易の中間都市として栄えた。岩を削り作られた建造物は圧巻である。カンボジアのアンコールワットでも思ったことだが、その建造物を作るのにかけられた時間、労力、お金を想像すると気が遠くなる。日頃、都市空間で目にするものとは全てにおいて桁が違うのだ。そう考えると僕たちは何をそんなに急いで生きているのかと思う。丸1日遺跡を歩き回り、クタクタになってその日は最寄りの街に1泊した。

翌日も朝は早い。645にバスに乗り、2時間程でヨルダンの最南端アカバという街に着く。もちろん道中の景色は全て砂漠である。予定ではすぐにフェリーに乗りエジプトに向かう予定だったが、その日がちょうどイスラム圏の休日(金・土)に重なっていたため、船は出ないとのことだった。仕方がないのでこの街で1泊することにする。アカバはアカバ湾に接しており、アンマンに比べるとかなり暖かい。日中は半袖でも問題がないぐらいだった。海岸まで出てみると。右手にイスラエル、左手にサウジアラビア、対岸にはエジプトが見える。周りを海に囲まれた島国から来ると、このいくつもの国境が集まっているというのは馴染みのない光景だ。東京湾で、東京、千葉、神奈川を見ているようなものだが、それぞれ使われているお金も言葉も住んでいる人も違う。

翌日の16時に船は出港すると聞いていたが、結局19時を回った頃にやっと動き出した。偶然港であった中国人の男の子(ロンドンに留学中)と、台湾人の女の子2(ヨルダンに留学中)、日本人の男の子(帰国子女)といろんな話をしながら時間を潰す。僕以外は英語を話せたので、僕はたまに遠くを見ていた。その中で中国人の男の子が、「ヨルダンはどうだった?」と質問してきたので、「人々は本当に親切で、食べ物も美味しく、街も綺麗。僕は大好きだ」と伝えると、彼は眉間に皺を作り「ほんと?」と言う。彼はあまりいい印象を持たなかったようだ。ヨルダン人も嫌いらしい。感じ方は人それぞれだし、僕と彼の国籍が違うこともあったのかもしれない。そんな話をしていた矢先、エジプト側の入国審査で問題が起こる。中国人の彼だけなかなかスタンプを押してもらえなかったのだ。結局2時間程待っただろうか。彼がエジプトのビザをロンドンで取得したのが問題という事だったが、真相はよく分からなかった。結局港を出たのは2300を過ぎており、予定ではこの日のうちにダハブという街まで移動したかったのだが、断念してヌエバアという港町に1泊することになった。この街は本当に何もなかったので、ひたすら本を読み続け、昨日やっとダハブに到着した。

アンマンからペトラを経由し2日でダハブまで行けると聞いていたが、なんやかんやで4日もかかってしまった。しかもダハブの宿に着くと宿泊客は僕たったひとりだった。この旅の中で本当によく僕は一人になる。孤独に耐えろという事なのか・・・。ここはスキューバダイビングで有名な街だが、スキューバダイビングはやらず、ソーラーパネルのごとく太陽光を蓄え、真冬のヨーロッパに向かう予定だ。

2013年1月3日木曜日

エルサレム→テルアビブ




201313日 エルサレム→テルアビブ


2013年はイスラエルのエルサレム新市街で、たくさんのユダヤ教徒、日本人旅行者と久しぶりにビールを飲みながら始まった。不思議な気分である。しかし、年越しそば、お雑煮、こたつ、初詣・・・今まで当たり前だった日本のお正月がとても恋しい。

エルサレムはとても特別な土地である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地がここにあり、街は巡礼者や聖職者で溢れかえっている。この街、この国の歴史は非常に複雑でちょっと本を読んだぐらいでは理解できない。そしてその複雑な歴史の上に、今この国で起きている様々な問題もある。
宿でオーストリアから来たというおじさんに尋ねられた。
「君の中に神か悪魔かどちらがいる?」
僕は答えた。
「僕の中に神はいます。そして全ての中に神を見出すことが出来ると思います。しかし、全ての中に悪魔もいます。全ては二面だけでなく多面的で、けして分けられるものではないと考えます。」
彼はそれを否定する。
「神は一人だ。彼は全てを創造した人物だ。たくさんはいない。そしてひとつのコップの中に汚い水ときれいな水を一緒に入れることができないように、人間もどちらか一方に心を捧げているのだよ。」
僕の英語力ではちゃんと言いたいことが伝わったのか、また彼が言っていることを正確に理解できたのかは自信がない。しかし、どうしようもない距離がふたりの中にあることは明らかだ。以前このブログにも書いたが、結局自然に恵まれ、努力すればその分見返りを得ることが出来る土地に育った僕には、この砂漠の中から生まれた宗教、文化を理解することができない。(もちろん日本にも理解をしている人はいる)それは僕に話しかけてくれたおじさんが僕の感覚を理解できないのと一緒だ。

エルサレムの近郊にベツレヘムというパレスチナ自治区がある。イスラエル政府は、テロ対策という名目で、その周りに高い分離壁を建設した。パレスチナの人々はここを自由に出入りすることが許されていない。そんなエリアだが、このベツレヘムはキリストが生まれた場所とされているため、世界中から観光客が出入りする。そして分離壁も見ることができるのだ。分離壁には様々な落書きがされている。殆どは平和を願ったもので、イギリスのグラフティーアーティストバンクシーやフランスのフォトグラファーJRの作品もある。僕はその壁を歩ける限り見て歩いた。分離壁は目に見える形で存在する境界だ。その境界に対しての人々のアプローチは様々である。境界に対してそれぞれの置かれた立場でも違う。境界の向こう側に手榴弾を投げ込む者、絵画や音楽で境界をなくそうと訴える者、境界の重要性を訴える者、無関心な者、・・・自分はどうか?ちょうどイスラエルにいた時、いしいしんじの小説「東京夜話」(ネパールの古本屋で購入)を読んでいた。彼の境界に対するアプローチは僕にとってなんとも魅力的だ。境界の存在を否定するでもなく、肯定するでもなく、透明人間の様に境界を行き来し、どちら側でも同じ感覚で楽しんでいるようだ。これはなかなかできることではない。これはセンスの問題だろう。憧れるが僕はなかなかこの感覚を得ることができない。もちろん自分は虐げられているワケでもなく、虐げているワケでもない。そんな経験もないからのんきなことを言っていられるのかもしれない。でもそんなことはどうすることもできない。僕とオーストリア人のおじさんの距離のようにどうしようもない。様々な立場で様々なアプローチが必要だと思うのだ。

イスラエルでは他に大都会テルアビブにも行ってきた。有名なバトシェヴァ・ダンス・カンパニーの公演を着飾ったイスラエル人達と鑑賞し(これは恥ずかしかった、僕の服はだいぶ汚ない)、翌日はテルアビブ美術館に行った。どちらもとても刺激的で、満足のいくものだった。壮大な自然、過去の偉大な文明の遺跡も面白いが、僕は同時代に生きている人が何を考え、それをどのようにアウトプットしているかが気になる。その後エルサレムに戻って行ったイスラエル博物館も建築、コレクション、展示すべてが素晴らしく、大好きな芸術家の作品も何点か展示されていてちょっと泣いてしまったほどだ。

イスラエルに対して日本人は危険というイメージを持っているだろう。観光資源の多さに対して、日本人ツーリストの数も少ないように感じる。しかし、この国には本当にたくさんの人種、宗教、歴史、文化が存在し、もう絶対紐解けないぐらいに絡み合っている。どの紐をひっぱても他のところが絡まってしまう。だからこそとても刺激的で、考えさせられることも多い。ぜひ皆にも行ってほしいと思った。僕は何の保証もできないけれど・・・。




Batsheva Dance Cmpany