2013年9月21日土曜日

東京→岐阜



2013年9月21日 東京→岐阜

飛行機から一歩出ると、多分の湿度を含んだ重い夏の空気が体にまとわりついてきた。もう夏の終わりが近づいているとはいえ、例年にない猛暑(毎年そう言われている気もするが)の名残か、はたまた先日までいたアラスカとのギャップか「めちゃくちゃ暑い」というのが日本に到着して最初の感想だった。慌てて着ていたフリースを脱ぐ。入国審査、税関を抜け到着ゲートを潜ると友人夫妻が「だいちゃんおかえり」と書かれた即席のTシャツを降って出迎えてくれた。うれしさと恥ずかしさで何とも中途半端なリアクションになってしまい申し訳なくなる。そこから一週間程は東京に住む友人たちと再会を喜び大いに飲んだ。中には中部や関西からわざわざ来てくれた後輩もいて、嬉しい反面これまた申し訳なくなる。東京の街は今まで回ってきたどこの街よりも大きく、人も多い。目につく文字の意味を全て理解できるためか、やたら看板などの広告が多い気がする。それと同じ理由で様々な人工音が犇めき重なり合い、音と音の隙間が全くない。中国やインド、メキシコなど同じ様に人口の多い都市ではどこも雑然として騒がしいのだが、そのどれもがその国の特徴を持っていて全く違うのは面白い。
高速バスで実家のある岐阜に向かう。都心から離れるにつれ車窓からの景色は日本独特の植生を持った山々に変わっていく。休憩で立ち寄ったサービスエリアでは土の匂いが鼻をかすめ、ここでやっと自分の慣れ親しんだ日本に帰ってきたという実感を得る事ができた。台風一過の晴天の中、久しぶりに見る富士山は相変わらず美しい稜線を描いてそびえ立っていた。

そんなこんなで無事実家にたどり着き、もう幾日が過ぎた。夜ベランダでタバコを吸っていると、頭に大きなスピーカーを乗せた消防団の車が「外出の際、就寝の際はしっかり施錠をしましょう」というある意味とても平和な放送を流しながら通り過ぎていった。また、ボサボサの髪と髭を切りに床屋にいくと、小学生の頃から皆同じ床屋に通っているので、店主との世間話の中で同級生の近況は全て分かってしまった。街灯のない田んぼ道を歩けば、聞こえるのは虫とカエルと鳥の声、刈り取りを待つ稲の匂いが立ちこめる。僕はそういう土地で育った。
旅を初めて2週間目の日記に「全ての驚きや感動は日本に、いや生まれ育った岐阜にあったのかもしれない」と書いていた。旅の中で本当に素晴らしい景色や貴重な体験をたくさんしたが、結局自分の価値観がひっくり返ってしまうようなことはなかった。それよりも小さい時に見たあの景色に似ているなというような感想をよく持ったのである。もちろんスケールの大小はかなりある。しかし、小学校の帰り道で水たまりに写った空や、中学生の時毎日泳いだ川の流れの中に僕はこの世の中の核と繋がり合えるような瞬間をしっかり捉えていたのだと思う。高校を卒業後実家を出た時から、外に出れば出る程どうしようもなく岐阜という土地で育った自分という存在が大きくなってくるのである。僕が今後岐阜に住むのかは今のところ分からないが、この土地が僕にとっての聖地であることは一生変わらないだろう。しかし、これは外に出たからこそ分かった事である。僕はそうしなければその事に気づけなかった。そう考えるとしっかりとこの地に足をつけ、結婚をし子を育てている地元の友人達がとてもかっこ良く見えてくるのだ。

もうひとつ、今回の旅を通して自分を取り巻く空間と時間の密度がぐっと増した様な感覚がある。具体的には自分の身体を使い実際に移動をした事で世界は今までよりずっと狭くなり、中国や朝鮮半島、台湾などは近所の様に感じるし、生まれる前は大昔のような感覚で生きていたのに、世界の様々な歴史に触れる中で、100年前ならつい最近の事の様に感じる。これは上で書いた「限りなく局地的な場所」を意識する事とは相反するようだが、自分の中では全く同じことなのだ。お百姓も哲学者も科学者も芸術家も世界中の宗教も分野や表現、アプローチの違いはあれど、皆同じような高密度の“ある点(上で書いた世界の核)”を目指している気がする。世界の密度が少し増したというのは自分が少しだけその点に近づいたということではないか。そして最も多感で敏感な時期を過ごしたこの土地が僕にとって“点”に近づく鍵になるということを再認識できた。結局、旅の前に自分のやっていた事、やろうとしていた事を今後も続けていくしか無いのだ。

一年の旅を終えた今、部質的財産はほとんどないが、目に見えない沢山の貯金ができた。それはこれからの人生の中で少しずつ下ろしていく事になるだろう。それを周りの人々と共有していければ幸いである。

※最後にこの旅の中で読んだ本にあった一節を載せて締めくくります。Facebookとのリンクは外しますが、今後も気が向いた時にこのブログにいろいろと書いていきたいと思っていますので、お時間があれば開いてみてください。皆さんの感想を読む事でなんとかこのBLOGを書くテンションを保っていました。本当にありがとうございました。

烏藪苺記    十一
綿貫征四郎

紅葉の季節が去らうとしてゐる。
全山燃ゆるが如き深き紅も見應へがあつたが、清き瀬の傍らでたゆたふ淵に覆い被さる枝先、紅の楓が差し掛かつてゐるのも、またそこから一葉二葉とひら〜紅葉が散りゆく樣、水に浮かぶ樣も興趣深いものであつた。つい昨日まで鮮やかなる紅葉を求めて野に山に彷徨ひ歩いたその愉しみも、移ろふ世の有りやうと同じく今は消え去らんとし、紅といへば冬への備へ萬全たらしめんと、吹き荒ぶ木枯しの中に揺れる隣家の軒の干し柿ほどのものである。
紅を求める心とは何か。
日々の個獨と無礼を慰めんがためのものか。しかし自然に對しても他人に對してもー尤もその二つは同じものと云へるがー畢竟自分の中にある以上のもの、または自分の中以下のものは、見えぬ仕組みなのだ。
例えばこの孤獨はそもそも何に由來するのか、といふやうな問ひ立ての答へは、私の中にしかあり得ぬ。過去に私が立てた、無數の問ひに對して、今なら私は確實に云ふことができるだらう。外に求めることはない、私の中に、少なくともその答への用意がすでにある、と。その答へを求めて私がどこを彷徨つたとしても、それは自分の中を反射させる鏡や小さきを大にして見るレンズを求めてのことなのだ。
このやうなことが明らかとされて、何が良かつたかといふと、外的には紅を求め衝動に駆られて動いてゐるだけなのだが、心持ちだけはずいぶんと靜かでゐられる、といふことである。しかしながら一方ではかうも考へた。それではまだ若輩の自分としてはいかにも殘念である。青春の覇氣が感じられぬ。が、何とも致し方ないことだ。

移ろふことは世の常である。幼き頃の美しい日々はすでに失はれ、そこに遊んだなつかしい人も心も、今は求めるを得ない。ただ滞りなきものは龍田姫の訪れ、綾錦のその裳裾を山から里へ惜しげもなく廣げ、また出立の時と見れば未練もなくしまひ上げる、野に山に飛び翔て、大車輪の働きでもつて季節の衣替えをやってのける、彼の女神の眷属、かそけきものたち。その仕事の練達の妙を堪能、冬に向ふ寂しき心の慰めとしよう。

龍田姫  御手差し挙げて  一捌けの
驟雨撒かれぬ  湖黄昏れぬ

昨夜の夢は愉快であつた。龍田姫のその美しい眷属の夢であつた。ひととき私の孤獨も慰められた。それは單なる幻ではない。繰り返しこの世を訪れ顕れる確たる現象である。それは朝寒の夜明けの露と消えた今、またいづくにか結ばれんときを待つてゐるのであらう。それが再び私の枕邊である必要はないが。

梨木香歩著『家守綺譚』より


2013年9月11日水曜日

アンカレッジ→ロサンゼルス



2013911日 アンカレッジ→ロサンゼルス


迎えに来たバンには僕以外にもうひとりの客とドライバーしか乗っていない。北に行けば行くほど移動費が高くなるが、この利用者の数ではしょうがない。ハイウェイを使いアンカレッジを目指す。早朝のフェアバンクスは深い霧に包まれ、10m先が何とか見える程度。今の季節アラスカは紅葉が始まっており、霧が晴れていればおそらく素晴らしい景色が左右に広がっているはずだが、見ることは出来ない。しかし、あたり一面霧に覆われたその景色もまた素晴らしい。北に来てから何かに期待することがなくなった。そういった姿勢でいれば些細なことから、偶然出会った大きな出来事まで同じ様に感動できる。4時間走って、デナリ国立公園の入口に着く。ここで車の乗り換えと昼食のため1時間休憩。フェアバンクスで知り合ったインド人にデナリ国立公園の写真をたくさん見せてもらったが、ここはまさにイメージ通りのアラスカだった。万年雪をたたえる山々に囲まれ、紅葉した大地は黄、赤、緑と美しい迷彩模様を作り出している。グリズリーやムース、カリブーが闊歩し、人間の入り込む余地のない世界。僕が今立っているここからは見えないが、この入口から先にはそんな世界が広がっているのだ。今更ながら行けばよかったとも思うが、おそらくアラスカにはまた来ることになるだろう。アンカレッジからやってきたバンに乗り代え、夕方宿につく。

とうとうこの旅最後の街だ。そしてここが最後の宿になるのだが、着いてすぐに失敗したことに気づく。元々治安のあまりよくないエリアに建っているせいか雰囲気があまりよくない。部屋は臭い、汚い、怖い人多い、風邪の人多いの4Kで(僕の部屋だけかもしれないが)、夜中の3時に部屋の電気をつけて大声で電話をするルームメイトにはお手上げだ。着いたその日に僕も風邪をひいてしまう。頭も体もだるいので少し外を散歩するぐらいしかできず、宿で映画を見たり本を読んだりして過ごす。それでも3度の食事はしっかりキッチンで作って食べていた。キッチン横のリビングスペース(なぜかここに住んでいる人もいる)には大きなテレビが置いてあり、いつも同じ人たちが一日中テレビを見ている。食事をしながらテレビに目を移すとちょうどソフィア コッポラ監督の「ロスト イン トランスレーション」が流れていた。この映画は東京が舞台で日本語のシーンも多い。前回見た時とは字幕が付いている言語が真逆だ。この映画の中では外国人から見た日本がわかりやすく描かれている。小さくて、メガネをかけていて、みんなスーツで、英語が話せない。以前見たときは少し馬鹿にされているように感じたがこうして世界を旅した後だと、確かにこう見えるだろうなと思う。僕自身他の国では人々に共通した特徴を探し、色んな人がいるとわかっていながら、それがその国の人のイメージになる。さて約1年ぶりに帰る日本は僕の目にどう映るのだろうか?それこそこの映画のように見えるかもしれない。街のサインボード、電車のアナウンス、レストランなどは旅行者に親切なのだろうか?Free WIFIはどれぐらいあるのだろう?安宿の価格はどれぐらいなのか?今まで持ち合わせていなかった海外の旅行者視点で見慣れた景色を見るというのは興味深い。

風邪でほとんど何もしないままアンカレッジ滞在を終え、飛行機でロサンゼルスへ。今僕は空港で日本行きの飛行機を待っている。やはり同じ様に待っている人は日本人が多い。日本語に囲まれ変な気分だ。2週間前までは日本に帰り、友人に会えることや美味しいものを食べられるということが楽しみでしょうがなかった。いや今でもそう思っているのだが、帰国が迫るに連れて表現しづらい複雑な気持ちになってくる。本当に終わるのだな・・・おそらくその実感を持てないのだ。しかし、世の中の大半のことはこうして大したフィナーレがあるわけでもなく、なんとなく終わっていくものなのだろう。いつかは終わるのだ。終わって始まるのだ。さあ日本に帰ろう。

※ロスの空港には大きな銃を持った警官が歩いている。偶然今日は9月11日だった。



2013年9月6日金曜日

ホワイトホース→ドーソン シティ→フェアバンクス




201396日 ホワイトホース→ドーソン シティ→フェアバンクス


カヤックの旅から戻り、燃え尽きたようにホワイトホースの宿でひたすらダラダラと過ごす。起きて、食べて、本を読んで、インターネットをして、釣りに出かけ、焚き火を囲み、オーロラを見る。すぐに移動する予定を延長し、3日間こんな生活を続けた。ここはそんな宿なのだ。皆長居をしてしまう。火は出会って間もない人々の心を開き、いつの間にか会話の内容は深いところまで掘り下がっている。日没が遅いせいもあるが、気がつくと日にちはとっくに変わっていて、朝がすぐそこまで来ていた。

ホワイトホースから小型のバン(信じられないほど高額)に乗り、7時間かけてドーソン シティという街へ。そこから更にバンを乗り換え鋪装されていない砂利の山道をかなりのスピードで登っていく。北に行けば行くほど、高度が上がれば上がるほど赤や黄色の木々の割合が増えていく。山頂付近にアメリカ国境があり、3度目の入国スタンプを押してもらい、アラスカに入る。見渡す限り人工物が全く見えないツンドラの大地。その中にマジックで引いたような真っ直ぐな道が永遠と続く。日本も自然に恵まれた国だが、人の手が全く入っていない景色を見るのは至難の業だ。山を見ても植林された山が多い。予定をはるかに超えホワイトホースを出発してから17時間後、日にちが変わる直前にフェアバンクスに到着する。

アラスカ大学フェアバンクス校はかなり大きな大学で、学内をバスで移動しなければならないほどだ。学内にある博物館はアラスカ全土の中でも収蔵品の量、品質ともに一番だと言われているだけあって、沢山の観光客がいた。中でも日本のツアー客が最も多かったように感じる。大学の敷地はそのまま広大な森に続き、その中には沢山のトレイルや、犬橇コース、クロスカントリースキーコースが作られている。トレイルに入り何時間もその中を歩くと動物の足跡や糞、そして何かの研究データを採集するための装置(一見ただのゴミに見えるようなものもある)を見つけることができる。ツンドラの大地は踏むとモフモフしており気持ちがいい。その森に毎日通いながら、この街でもダラダラと過ごす。

そんな中でホワイトホースにいる時から料理だけは3食しっかりと作っている。旅も終盤に差し掛かり今更?という感じだが、1年間の旅を通して日本という国が確実に世界に誇れるものは料理だなと思った。そしてアジアの食文化は世界で一番だろう。ホステルのキッチンでしっかり料理を作るのは日本人ぐらいではないだろうか。僕が会った旅人はみな現地の食材を使いとても器用に料理をする。そんな旅人たちにはかなわないが、日本人が少ないホステルで料理をしていると、ずいぶんと声をかけられるのだ。「君は料理人?」「まるでレストランね!」フェアバンクスの宿で夜親子丼を作っていると、中国人の若い4人組の女の子が話しかけてきた。「え!?ご飯を鍋で炊くの?ライスクッカー(炊飯器)ではなくて?」この宿に炊飯器はない、というより炊飯器のある宿なんてほとんどない(日本人の経営する宿ぐらい)。「ライスの歴史はライスクッカーよりずいぶん長いんだよ。」と皮肉を込めて言う。彼女たちは現在NYに留学をしており、休暇を使ってアラスカに旅に来ているらしい。きっとかなりお金持ちの家の出身なのだろう。何かするたびに素晴らしいリアクションをしてくれる。胃袋を掴めば男は逃げないのだと、昔女性の友人が言っていたが、それは逆でも言えることなのだろうか?



2013年8月31日土曜日

ホワイトホース→カーマックス (ByカヤックPart2)



2013831日 ホワイトホース→カーマックス (ByカヤックPart2)


カヤックの旅を初めて4日目。前日の好天が嘘のように朝からまた雨が降っている。前日にせっかく乾いたテントやアウターその他もろもろはまた水浸しだ。手が冷えて寒い。1日中休むことなく漕いで夕方ユーコン川との合流地点へ。一気に川幅が広くなる。本日も川の中洲でキャンプ。中洲と言ってもかなり大きな島だ。島の中央にはいつの時代のものなのかボロボロの大きな船が放置してあった。雨の中テントという閉ざされた空間で外の雨音を聞いていると色んな音に聞こえる。大きな獣の足音に聞こえ、恐る恐る外に顔を出すと何もいない。しかし自然の音をこうしてちゃんと聴くという行為をあまりしてこなかった気がする。この音の聞こえ方は幼少の頃に近い。本日漕いだ距離60km

5日目、朝起きると辺りは霧に包まれ真っ白だ。そんな中をカヤックで進む。とても妖艶で幻想的。今にもギーギーと音を立てながら幽霊船が現れそうな空気。11時頃になると太陽が出てきて霧が晴れる。顔の片側だけに日が当たり暑い。あれだけ太陽を求めていたのに勝手なものである。ユーコン川は流れも早い。力を入れなくともパドルは水を掻きどんどん進んでいく為、予定よりかなり早く今日のキャンプ地に到着する。雨が降っていないので2回目の焚き火。細かな木や落ち葉から始め、熱量が上がるにつれ大きな木をくべていく。自転車のギアと一緒。火遊びをはじめると止まらなくなるもので、気がつくと5時間も経っていた。火を見ながら1年間の旅を振り返ったり日本の友人や家族のことを考える。その夜、火遊びをしすぎたためか夜中にトイレに行きたくなる。ダウンを着込み外に出ると夜空が緑に光っていた。人生で初めて見るオーロラ。スウェーデン人の友人の言葉を思い出す。「オーロラなんて空が光ってるんだからクラブと一緒よ。」しかし、実際のオーロラはクラブとは違っていた。風になびくカーテンのようにゆっくり揺れるそれでは、僕は踊れない。

6日目。本日も好天。前日目的地に早く着きすぎてしまったので、朝のんびりしてから1100出発。ユーコン川に入ってから、かなり広範囲に渡って木が丸焦げになった山火事の跡をよく見かける。乾燥したこの地域では太陽光や雷からすぐに発火し瞬く間に火が広がっていくのだろう。自分と同じような旅人の火の不始末が原因のものもあるかもしれない。気を付けよう。流れが早いのでパドルで漕ぐことも止め、ただ流れていく。川はただ単一的に流れているように見えて、その中に流れが急な場所や全く流れがない場所など様々な顔を持っている。それは全て地形が作り出すもので、そういった地形と流れの関係を考察していると実に面白い。テキストからではなくこうして体験から学ぶことは自分の真の力になっていくような気がする。この日も夜遅くまで焚き火。インドのヴァラナシの火葬場で見た死体から液体が勢いよく吹き出る瞬間を思い出す。火はいつも生と死の狭間にある。

7日目。このカヤックの旅も残すところあと2日。明日は2時間ほどしか漕がない予定なので、1日川の中で過ごすのは今日で最後だ。朝食後、前日同様ただ流されていく。適当な時間に昼食をとりまた流れていく。15時頃、ゴールまで残り20km地点に到着。最後のキャンプだ。ここは風が強い場所のためか、以前キャンプをした人が石を積み上げて風よけを作った焚き火跡が残っていた。まだ時間も早く、暇を弄んでいたので、その焚き火跡を使い簡易的な窯を作る。その窯の煙突部分に鍋を置けば、水はあっという間に沸騰する。この窯を相手にまたひたすら火遊び。どんどんと熾を貯め温度をどんどん上昇させていく。「お…面白い。」大学で4年学び、さらに4年間陶芸に関わってきたのに、この旅の中であまり陶芸に関して考えてこなかった。しかし、こうして目の前の火と格闘しているとどんどん感覚が戻ってくる。人類は火をコントロールするようになったからこそ今の繁栄があると思う。そして有機質の粘土をその中に入れれば、それは無機質で永久的に形の残る塊へと変化する(だからこそ世界中どの博物館にも土器がある)ことを発見した。まるで錬金術のようなその行為はこうして未だに人々の心を捉えている。「ああ、窯が焚きたい。」陶芸をやったことのある人間なら分かるあの特別な時間。旅の最後にぐるっと一周して同じ場所に帰ってきたような感覚だ。止め時がわからなかったが(ゼーゲルも色味も入ってないので)、あまりに温度が上昇しすぎて窯が崩れて終わった。

最終日20km2時間漕いで、カーマックスという村に到着。車の音さえもやけにうるさい。そこから車をヒッチハイクしホワイトホースまで帰る。僕を拾ってくれた同じ歳の女医はめちゃくちゃ車を飛ばすので、8日間かけて水力と人力で進んだ距離をたった2時間半でホワイトホースに戻ってしまった。街は人工の音に溢れ、人もたくさんいる。風に揺れる木の音もなかなか耳まで届かない。魔法が溶けてしまったような感覚。この8日間は川と森と動物と火と僕だけの世界だった。時が経つにつれこの時間がいかに貴重なものだったのかわかってくるだろう。でも、もしまた来たければこればいい。それだけだ。

※短い期間に色んなことを感じ、考えていたため長い文章になりました。最後まで読んでくれてありがとうございます。


2013年8月23日金曜日

ホワイトホース→カーマックス (ByカヤックPart1)



2013823日 ホワイトホース→カーマックス (ByカヤックPart1)


スキャングウェイからBoards of Canada を聴きながらBorder of Canadaへ。北国の透明感のある太陽光といかにもカナダという大自然に電子音がよく合う。4時間後ホワイトホースに到着。ホステルに向うが本日はベッドがいっぱいと断られてしまう。「テントサイトなら空いているから、今からホームセンターで安いテント買ってきなよ。」とスタッフにアドバイスを受ける。30分歩いてテントを買いに行くが運悪く売り切れ。時間も遅かったので他のお店も閉まっており途方に暮れてしまった。ホステルに戻り、今日はしょうがないから野宿をすると伝えると近くに住むという友人(ジャマイカ人)に電話をしてくれ、運良くその家に泊めてもらえることになった。その晩ジャマイカ人とふたりでアバターを見る。画面に対して毎回大きなリアクションをする彼を見ていて映画の見方にも育った環境なんかで違いがあるのだなーと思いながら眠りについた。

このホワイトホースに来た理由は、ユーコン川を船で下るためである。つい最近までそんな計画は立てていなかったのだが、メキシコシティで会った旅人がこれからカナダに向かい2週間かけてユーコン川をカヌーで下る計画を話してくれた。ユーコン川がカヌーイストの聖地だということは知っていたが、それは凄腕の人たちが最後にたどり着く場所だと勝手に思い込んでいた。話を聞いていて、素人でもできるのであらばと自分もいつの間にかやる気になっていた。その友人は僕がこの街につく1日前に既に川に入ったらしい。早速僕も準備に取り掛かる。レンタルカヌーショップに行くとカヌーは全て出払っておりカヤックなら貸せるという。少し割高だが待っている時間もないので僕はカヤックでユーコン川の支流テスリン川からスタートし、途中ユーコン川に合流、8日間かけてカーマックスという街まで下る計画を立てた。カヌーに比べカヤックは積載できる荷物の量がかなり限られるので悩みに悩んで8日分の食料や自分で持っていない様々な道具を買い揃える。準備だけでまる一日かかり既にクタクタになってしまった。出発前夜色々と考え出すと不安でなかなか寝付けない。一度川に入ってしまえば、ゴールの街まで人の住む街はおろか道さえも川とは接しない。何かあれば同じ様に川を下っている旅人か、上空を飛ぶ飛行機にSOSをするしかない。もちろんここは熊をはじめとした野生動物がわんさか生息するエリアだ。食料をけしてテントの近くに置かないなど注意することは山のようにある。そして全ては自己責任だ。レンタルショップはあくまでレンタルショップであって、カヤック素人の僕に手厚くレクチャーをしてくれるわけでもないし、何の保証をしてくれるわけでもない。

翌日、川岸まで車で送ってもらいいよいよカヤックの旅が始まった。パッとしない曇り空の下パドルをどう動かせば船がどう動くかを色々と実験してみる。なかなか真っ直ぐ進んではくれない。初日は30kmを漕ぎキャンプをすることにした。しかしキャンプ地に選んだ河原には無数の熊の足跡がついている。今まで見ていたブラックベアのものよりはるかに大きいこの足跡はグリズリーのものだろう。気持ちに余裕もないのでインスタントラーメンを作り19時には寝袋に入る。一晩中、外で音が鳴るたびビクッとして起きる。

2日目、朝から雨が降っている。テントをたたむのも食事を作るのもすべてが億劫だ。しかし、一向に止む気配がないのでずぶ濡れになりながら支度をし、9:00出発。前日よりも少しだけ余裕が出てきた。ハクトウワシやカワウソ、ビバーなど様々な動物が顔を出す。人工的な音が一切しない世界。一本の枝が水面に触れて立てる小さな音まで鮮明に聞こえる。結局雨は一日中降り続き、部室のような匂いのするテントの中で寝た。本日漕いだ距離40km


3日目また雨が降っている。ため息をつきながらテントをたたみ、パンとコーヒーの簡単な食事をして出発。少しパドルが軽くなった気がする。体が自然に無理のないフォームを作るのだろうか。お昼頃にやっと雨が止む。雲の切れ間から太陽が顔を出した。ほとんど合羽の役割を果たしていなかったアウターが乾いていく。これほど太陽に感謝したことはしばらくなかった。50kmを漕ぎ川の中の島でキャンプ。持ってきた水がどんどん減っていたので、川の水を沸かして飲み水を作る。雨が降っていないため焚き火を作ってガス燃料を節約。そんな作業に必死になっていると、対岸で大きな足音が聞こえた。顔を上げるとムースの親子連れがこちらの様子を伺っている。すぐに逃げるものと思っていたがこちらを伺いながらどんどん近づいてくる。ムースは大型の鹿で、近くで見るとかなりの迫力だ。10m先まで彼らが近づいて来た時、僕は写真を取ろうと立ち上がる。その瞬間彼らはあっという間に逃げていってしまった。空間と時間が一気に密度を増した瞬間だった。この島に船を着けた時やたらとムースの足跡が多いと思ったのだが、どうやらここは彼らの道だったようだ。後で辺りを散策すると一頭分のきれいな骨が転がっていた。今日はいいこと続きだ。

2013年8月19日月曜日

シトカ→ジュノー→スキャングウェイ



2013819日 シトカ→ジュノー→スキャングウェイ


アラスカ州立フェリーは素晴らしい交通機関だ。北米大陸のフィヨルド式になった北西海岸を縫うように運行し、船か飛行機でしかたどり着けない小さな街に寄港してゆく。価格も安くはないが、ローカルの人々の足なので高すぎはしない。リタイアした老夫婦や先住民の子連れ家族、バックパッカーなど様々な人が乗っており、船上でテントを張って寝ている人さえいる。高いツアーに参加をしなくても船上からイルカ、鯨、アザラシ、アシカ、ハクトウワシと様々な動物を見ることができる。島と大陸の間を進むので基本的に海は穏やかで、両側には万年雪に覆われた山々が迫ってくる。そのスケールはとても言葉では言い表せない。もちろん僕の写真技術では到底捉えることが出来ない。(あえて言うならSigur rosがよく似合う風景)北国の短い夏の終わりに差し掛かった今は乗客も少なく(元々ここに来る人はさほど多くない)、そんな大自然の中でも人々は気が向いた時に外に出たり、本を読んだりとそれぞれの時間を船内で過ごしている。こうした空気が何とも心地よい。今後日本で忙しい日々を過ごしたとしても、この時間は僕の心の底の方で通奏低音のように流れ続けるだろう。

シトカという街に初めに来た西洋人はロシア人だった。かつて日本の漁船が流れ着いたという島にもロシア語でヤポンスキー島という名前がつけられている。ダウンタウンは1時間もあれば回れてしまう程小さな街だが、山々と海に囲まれた場所なのでトレッキングやシーカヤックなど自然相手の遊びには事欠かない。宿のスタッフにどのトレイルがいいかと相談をしてみる。

「このトレイルが素晴らしいよ。深い本物の森だ」
「さっきその辺を散歩してたら、ものすごい数の鮭が遡上していたし、沢山のベリーが生っていたから熊が心配なんだけど・・・」
「ああ、めっちゃいるよ!みんな会いまくってるから気をつけてね。ベアスプレーは持ってるよね?それから熊に出会った時の対処もわかってるでしょ?」
ここでは熊を見かけることが日常茶飯事だというように彼は言った。
「スプレー持ってないんだ。買ってくるよ。熊への対処はなんとなく知ってはいるけど、まだ野生の熊には会ったことがないんだ。」
「スプレーはマストだよ。どうしても熊との距離が近づいてしまったら手を大きく上げて自分を大きく見せるんだよ。そしてゆっくり話しかけてね」

翌日ベアスプレーを持って山に入る。入って早々に大きな熊の足跡と糞がトレイルの真ん中に落ちていた。本当に沢山の熊がいるようだ。誰ともすれ違わないままどんどんと森の奥に入っていく。この森は僕が今まで経験したことがないほど豊かで深い森だった。降水量が多く湿度が高いため一面苔むしており、獣や魚、樹木など様々な匂いが立ち込めている。日本ではお目にかかれない針葉樹の大木が何本もそびえ立ち、その倒木から更に木が生え複雑で立体的な地形を作り出している。熊だろうか、ついさっき獣が捕らえたであろう新鮮な鮭が、川から30mも中に入った場所に落ちていた。きっとまだ近くにいる。ずっと見られている感覚。緊張した空気の中で、自分が静かに興奮し、心からこの時を楽しんでいることが分かる。結局この日は熊には遭遇せずに無事下山することができた。(後日遭遇)
翌日は宿で知り合ったアメリカ人の中学校教師と違う山を登る。自分の親よりも年上に見える彼が軽い感じで誘ってきたので、大した山ではないだろうと思っていたが、実際は一歩踏み外せば崖下に真っ逆さまというような岩山だった。後で聞くと彼はクライミングを長いことやっているとのこと。今はシアトルに住んでおり、娘さんがこの街でカヤックガイドをしているので会いに来たという。ちなみに息子さんはナショナルパークのレンジャーというアウトドア一家だ。初めに言ってくれたら覚悟はしたのに・・・。しかし、食べられるきのこや木の実を解説しながら口に入れ進む彼との登山はとても面白かった。彼の中ではこういった遊びが日常の中にある。後で会った娘さんもめちゃくちゃ綺麗でびっくりした。

その後もジュノー、スキャングウェイと色んな街に立ち寄りながら北上をしている。一日一日がとても濃い。初めて見る紅鮭の美しさ、氷河の青さなど野生動物や圧倒的な景色との遭遇、宿で急に始まるアコースティックライブ、誰かが作ってみんなにシェアしてくれるご飯など旅人たちとの時間、書き出すとキリがない。そしてそのどれもが何の前触れもなく起こるのだ。自分から求めるのではなく目の前で起こったことを楽しむといった感じ。皆がそういうスタンス。誰も急いでいない。ずっとこの土地に来たかった。ずっと憧れてきた。大切なことはそこに実際自分が立っているということ。本当に来てよかった。

※いいことばかり書いてますが、アラスカの物価はめちゃくちゃ高いです。それに合わせてインサイドパッセージは交通機関があまり発達してないので、タクシーを使わなければならない機会も度々出てきます。パンとパスタの繰り返しの生活・・・。


2013年8月12日月曜日

プリンス ルパート→ケチカン



2013812日 プリンス ルパート→ケチカン


目を覚ますとまだ5時前だというのに窓の外は明るくなっていた。だいぶ北上してきたようだ。霧に包まれた針葉樹林の中をバスは走っている。時々バスに驚いた鹿が森の中に逃げていくのが見える。バンクーバーを出てから既に24時間が経っていた。

ワシントン(USA)、ブリティッシュ・コロンビア(カナダ)、アラスカ(USA)3つの州にまたがったエリアには、入り組んだ湾と島々によって複雑で豊かな森と海の世界がある。そこには北西海岸インディアンと呼ばれる先住民の人々が遥か昔から暮らしており、僕はずっと彼らに惹きつけられてきた。
なぜ彼らに惹かれていたのか?学生時代に自分の祖先が山の民だったというところから、狩猟民に興味を持ち、東北のマタギ(猟師)文化や北海道のアイヌ民族について調べていた。そこから更に樺太、アリューシャン列島と続き北米大陸北西海岸の先住民にまで興味が広がっていった。太平洋を囲むこの一帯には衣服や装飾品、狩猟道具など具体的なモノの中に見られる共通性、そして自然との関係などの精神世界にも共通性があるように思えた。それから僕はずっとこの土地に憧れ続けてきた。だからこそ旅の最終目的地をこのエリアにしたのだ。

バスはやっとプリンス ルパートという街に到着した。シアトルやバンクーバーではほとんど見なかったネイティブの人々の顔が目立つ。早速宿にチェックインを済まし、この街の沖にあるハイダ・グアイ(旧名クイーンシャーロット諸島)へのアクセスを調べる。“ハイダ・グアイ”はその名の通り、ハイダ族の人々が暮らす島々である。北西海岸インディアンはトーテムポールに見られるようなかなり高い芸術文化を持っており、民族によってそれぞれ特徴がある。その中でも僕はこのハイダ族のモノが特に好きなのだ。また大好きな小説「20マイル四方で唯一のコーヒー豆(池澤夏樹著)」の舞台になっていることからも、この諸島にどうしても行ってみたかった。だが、調べてみるとその費用の高さに驚愕する。なんとか島に上陸できてもそこから僕が行きたい南部まではボートをチャーターしなければならず、今持っているお金を全て出しても行けるかどうかだ。うーん、とにかく島に立つことが大事だろうか・・・とも思ったが、散々悩んだ挙句この諸島に行くのは次回ということにした。せっかく行くのならば、満足のいく滞在にしたい。次はいつ来れるか分からないが、仕事を辞め貯金を全て使ってここに立っている今の自分を考えると、きっとまた来るだろうという気がした。

プリンスルパートから船で更に北上。国境を超え、ついにアラスカ州に入る。船は常に陸と島の間を縫うように進んでいく。イルカが併走し、上空にはハクトウワシも飛んでいる。運がいいと鯨も見られるそうだ。チリのアウストラルを思い出す。あそこも複雑に入り組んだ海岸だった。7時間後ケチカンという町に到着。それほど大きな街ではないが、大型フェリーが寄港するため、お土産物屋が並ぶ。しかし船が数時間寄るだけの街なのでホテルなどはほとんどなく、夜は無人の街のような静けさになる。何とも不思議な街だ。
到着の翌日トレッキングをする為に森に向かう。途中、橋から川を除いて驚いた。川が黒いのだ。よく見ると川底が全く見えないほど大量の鮭が産卵のために遡上していた。疲れ尽きた死骸がいくつも河原に転がっている・・・子孫を残すために必死に流れに向かっていく姿はこちらの感動を呼び、何時間でも見ていられそうだった。
針葉樹林の深い森は、雨量も多く毎朝深い霧に包まれるためか、辺り一面が苔の絨毯になっている。日本の森に近い匂いが立ち込め気持ちが落ち着いていく。この森には熊も生息しているので、時々すれ違う人々はみな猟銃を抱えていた。緊張感のある張り詰めた空気がより一層森を美しくしている。この街に滞在した4日間平均して6時間は森の中にいただろうか。ここは本当に豊かな土地だ。山の幸にも海の幸にも恵まれている。そんな豊かな土地だからこそ、人間は自然に対して敬意を持ち、けして採取しすぎず、すべての生物の循環が保たれるような関係を築いてきた。むしろ自分たちが循環の一部であることを感覚的に理解していた。自分たちは生かされているという感覚。マタギやアイヌの文化と北西海岸インディアンの中に見られる共通点はそこなのだろうと思う。世界中の様々な土地を旅をしてきて、改めて思うのは人が一から文化を作るのではなく、初めに土地ありきで文化が出来上がっていくということだ。

2013年8月5日月曜日

シアトル→バンクーバー



20138月5日 シアトル→バンクーバー


ポートランドを出発したバスは、4時間後にシアトルのチャイナタウンに到着した。ありがたいことにホステルもチャイナタウンにあったので、重い荷物を運ぶ手間が省けた。さらにありがたいことにチャイナタウンには日系の大型スーパーもあった。中に入ってみると、緑茶、豆腐、味付け海苔、漬物、納豆、大福、甘酒…日本の製品が所狭しと並んでいる。旅をしていてほとんど思い出すこともない食品なのだが、見てしまうと口の中に味の記憶が戻ってくる。口の中は唾液でいっぱいになった。どうしても我慢できず豆大福とおーいお茶を買い、店の前ですぐにほおばる。「あーこれこれ!!!この味!」周りをいく人からは随分気持ち悪く見えただろう。道端に満面の笑みで口をいっぱいにしながらお茶を飲む男が立っていたのだ・・・。このスーパーには紀伊國屋書店も併設されており、久しぶりに日本の雑誌を猛烈に立ち読みする。これは日本にいるときからの僕の趣味なのだ。もう快感としか言い様がない。こんなことができたのはタイのバンコク以来だ。シアトルの街は人口の13%がアジア系ということで街を歩いていても自分と同じような顔を沢山見る。なんだか不思議な感覚である。
美術館ではちょうど「FUTURE BEAUTY 30 YEARS OF JAPANESE FASHION」が行われていたので行ってみる。今まで女性があんなに目を輝かせている展覧会は見たことがない。時にキャーという声まで聞こえてきた。 ファッションは時代も国境も超えて女性(もちろん男性も)の心を掴んではなさない。僕はあまりファッションに詳しくはないが、70年代後半にイッセイミヤケから始まり、世界を席捲したギャルソンやヨージヤマモトは、一見前衛的なのだが、着物や折り紙など日本の文化を研究し、強く意識したものだった。学生だったとき大学の先生に「西洋の真似ばかりではダメだ。お前日本人なんだぞ」と言われたことを思い出す。結局自分の足元を見るしかないのだ。シアトル滞在は日本に満ちた日々だった。

シアトルから国境を超えカナダへ。たった4時間の移動だ。世界一住みやすいと言われるバンクーバー。どんな都市なのか楽しみにしていたのだが、到着早々アジア人の多さに度肝を抜かれる。シアトルの比ではない。50%ぐらいはアジア人なのではないか?街の中は中国語、韓国語、日本語で溢れ、英語よりもそういった言葉の方が多いのではないかとさえ思う。中でも中国人が多いのだが、香港がイギリスから中国に返還される際、たくさんの香港人がこちらに移ってきたらしい。かなり最近の出来事だ。世界は今も人が動いている。ヨーロッパ・北米を旅しておそらく日本もやがて沢山の移民が住むようになるだろうと思った。日本という国は歴史の中でほとんどそうした経験をしたことがない。そして皆が法外の法、言外の言のようなものを共有して社会が成り立っている不思議な国である。しかし、海外から移ってきた人にそれを理解しろというのはかなり無理があるように思う。きっと沢山の混乱が起きるだろう。そういった際に何が摩擦の原因になっているのかを実感を持って気づき、緩和剤になりうるのは海外に住んだ経験や、外国を旅をした経験がある人だろう。この旅の経験もそういったところで具体的に役立つのではないか。また、僕の地元岐阜などすでにブラジルや中国、フィリピンなどから多くの労働者を受け入れている地域が、今後モデルケースになっていくようにも思う。学校、病院、役所など既に様々な対応がされだしている。僕の友人は岐阜県警だが、来月から半年間ポルトガル語習得のためブラジルに派遣されるようだ。身近で起こっていることが実は世界と繋がっている。それを感じられるようになったのはこの旅で得た良い感覚のひとつだと思う。
バンクーバーでは他にトレイルを歩いたり、レンタサイクルで海岸線を疾走したり、ずっと行ってみたかった博物館に行ったりとなかなか活動的な日々を送った。

※もし、読んでくださっている人の中でアメリカに行く機会がある方はぜひSTUMPTOWNというコーヒー屋さんに行ってみてください。僕も旅の中で出会った方に教えてもっらたのですが、ポートランド発祥のコーヒーショップで、現在シアトルとNYにもお店を出しています。シアトルといえばコーヒーだろということで5件ほど評判のいいコーヒー屋を回りましたが、香りも酸味もダントツで美味しいと感じました。(まあ僕は違いの分からない男として有名ですが・・・)

2013年7月29日月曜日

ポートランド



2013729日 ポートランド


僕の28年間の人生の中で最も影響を受けた国。それは間違いなくアメリカである。まず意識せずとも日本自体がアメリカの影響下にあったし、物心ついてからも文学、音楽、ファッション、考え方・・・あらゆる面で海の向こうの大国(特に西海岸の文化)に刺激されてきた。その中でも最も訪れてみたいと思っていた街が、オレゴン州のポートランドだ。メキシコシティからLA、サンフランシスコと飛行機を乗り継ぎ、一日がかりでこの街にやってきた。当たり前だが周りは全て英語である。4ヶ月近くスペイン語圏で旅をしていたので、英語を聞いていると新鮮な印象を受ける。まるで映画の中にいるようだ(このあたりまさにアメリカの影響)

なぜポートランドか?日本で雑誌やインターネットを見ているとやたらこの街の話題が目に付いた時期があった。リベラルな土地柄、アウトドアスポーツが盛ん、zineという小冊子の発行も盛ん、環境に対する意識が高いなどなど・・・そのどれもがこの街の住みやすさ、面白さを押していた。またガス ヴァン サントという映画監督が好きなのだが、彼の映画はオレゴン州が舞台のものが多く、映画と同じ空気を感じてみたいというのもここに来たかった理由の一つだ。到着の翌日から街をあてもなく散策してみる。確かに本屋や雑貨屋、服屋、レコード屋、自転車屋、カフェなどどれも店主のセンスやこだわりが感じられ見ていて飽きることがない。財布の紐を縛るのも必死だ。また、かなりの数のローカルが自転車を利用していることが気になる。街自体がそれほど大きくないこと、どの道にも自転車専用レーンがあること、公共交通機関に自転車を乗せられること、そして人々の環境や健康への意識の高さがこういった状況を生んでいるのだろう。各お店の前に自転車置き場を設置していたりするので日本のように放置自転車だらけという場所も見なかった。そもそも皆自分の自転車を個性的にカスタムし大事に乗っているという印象だ。ヘルメット着用率も9割。

週末には街の中心の広範囲を歩行者天国にして大規模なマーケットが開かれる。陶器やガラス、木工、衣類・・・などを個人で制作している人々、マッサージや占いなどを生業にしている人々、ミュージシャンや路上パフォーマー、飲食の屋台がお店を出しているのだが、お客さんの数もすごい。毎週こうして人前でモノを販売したり、パフォーマンスできるというのは、定期的な収入を得る場があるということだし、手直ししたことに対してすぐにレスポンスを受けることもできる。個人で何かを始めようという人のチャンスの場でもある。買い手の方は、そこに行けば気に入った個人から直接モノを買ったり、マッサージを受けたりできるのだ。僕は面白い街というのは人の流れが活発な場所だと思っている。田舎から都市部に出て初めに感じたことがそれだった。人が動けばモノもお金も動く。そしてそこから新しいコトやモノが生まれていく。最近日本でコミュニティーデザインと言われているものも、様々なアイデアで新たに人の流れを作り、その場所に再度活気を呼び戻すものだと思う。これから僕が何をするかは分からないが、この街にはいろんなヒントがあるような気がした。

もう一つこの街の特徴は、郊外の自然の豊かさである。街からすぐのところに深い森がいくつもあり、その中に沢山のトレイル(山道)がある。完走()に丸1日かかる長いものもある。お金がない僕はこの街にいた6日間中2日間をこの森を歩いて過ごした。びっくりするのは森の中で出会う人の多さである。ある人は犬の散歩をし、ある人はトレイルランニング(山道を走る競技)をし、ある人は木陰で本を読んでいる。そこは深い森の中なのだ。日本で山を歩いている時の3倍は人に会っただろう。トレイルはどれも整備され、交差する場所にはすべてサインポールが立っている。それぞれにかかる時間が明記された地図もタダでもらうことができる。こういった工夫が老若男女全ての人が安心して森に入れる理由だろう。そして何よりここの人は自然の中で過ごすことが好きなのだ。日本のように格好から入るでもなく、日常着のまま散歩の延長で森に入る。

昔、僕の友人がボーっとしたいがためにわざわざ釣竿を持って池のほとりに座っていたが、ここでは一人でボーっとしていようが山の中で本を読んでいようが変な目で見られるようなことはない。それぞれが自分で心地よい時間の過し方を選んでいる。そして選べる環境がある。それはロンドンで見たGoogleのシステムと一緒だ。選ぶ自由とそれに伴う責任。それを皆が理解していることが大前提の社会。それが日本でうまくフィットするかは疑問だが。ずいぶん大人な社会だなと感心する。


※夏のシーズンポートランドでは市内や郊外でいくつも大きな音楽のフェスティバルが行われています。僕が滞在している間にもThe Flaming Lipsのライブがありました。ちょうど日本では友人たちがFUJI ROCKに行っているということもあり、めちゃくちゃ行きたかったのですが、旅終盤の僕にはとても手が出る値段ではありませんでした。残念。また来よう。