2013年6月28日金曜日

マチュピチュ→クスコ



2013628日 マチュピチュ→クスコ


目が覚めても体調はあまり回復していなかった。早々にトイレに駆け込む始末。不安でいっぱいだがとりあえず下痢止めを飲み、マチュピチュへ向けて出発する。

まずは乗合タクシーで2時間程かけて、オリャンタイタンボという街に向う。クスコから列車も出ているが高額のため、ちょうど中間の位置にあるこの街から列車に乗ることにした。それでも片道5400円もするのだ。日本一区間運賃の高い京都市左京区を走る叡山電車もびっくりである。同じ区間をローカルの人々が乗るとたった360円なのだから、この国がいかに観光に頼っているかがわかる。車の中ではずっと頭を窓ガラスに付けて死んだように外を見ていた。道路の凹凸が激しくお尻を刺激する・・・なんとかオリャンタイタンボに到着し、列車に乗り換える。この列車だが、観光客とローカルの車両ははっきりと分かれている。観光客用の車両は天井部分もガラス張りになっており、座席も広く、ゆっくりとマチュピチュまでの景観を楽しめるようになっている。まるで叡山電車の展望列車「きらら」だ。列車は定時に出町柳いやオリャンタイタンボを出発した。左右にそびえる高い山々の間をウルバンバ川に沿って進んでいく。クスコから少し標高が下がったからか、植生も変わり、川の両側にはジャングルが広がっている。しかし、山を見上げれば木が生えていない。この高低差を利用しインカの人々は段々畑を作り様々な種類のトウモロコシやジャガイモを作っていたそうだ。ジャングルはどんどん深くなっていき、この先に本当にマチュピチュがあるのだろうかと思いかけた時、前方に街が姿を現す。マチュピチュへの玄関口マチュピチュ村(アグアスカリエンテス)だ。叡山電車でいうところの鞍馬寺への玄関口鞍馬。その日は、まるで日本の温泉街そっくり(実際に温泉もある)のこの街でひたすら寝て過ごす。明日こそは体調が戻ってほしいいと願いながら。

翌日早朝500、目を覚ますと体は嘘のように軽くなっていた。マチュピチュでサンライズを見ようとバス停(マチュピチュ村からマチュピチュまでは専用のバスで25)に向かうが、既にたくさんの人が列を作っていて、待っているうちに太陽はあっさりと上がってしまった。しかもバスの料金が片道1000円もする。鞍馬寺のケーブルカーの方が安い。まあ毎日世界中からものすごい数の観光客を迎えながら、遺跡を守っていくにはお金がかかるだろう。そう自分を納得させいざマチュピチュへ。目の前に広がったのは、様々なメディアで目にしてきた空中都市だった。木の文化から来た者にとって、その石を巧みに加工し作られた街は新鮮な衝撃を与えてくれる。自分の国にそのような遺跡はあまり見られない。何よりも僕が感動したのは、マチュピチュから何本も伸びているインカ道だ。インカ帝国は国中をこのインカ道で結んだことで発展していったというのを聞いたことがある。その道は僕が想像していたよりもかなりしっかりとした作りだった。

翌日、前日にマチュピチュを堪能し疲れていたが、今日は10時間をかけてクスコに帰る。お金を節約するため、車が入ってこれるギリギリのところまで2時間半線路沿いに歩き、そこから一歩間違えれば谷底に真っ逆さまというような道を乗合タクシーで7時間かけてクスコまで帰るのだ。これがバックパッカーの王道コースらしい。マチュピチュ村から線路の上を歩き出す。辺りはジャングルで見慣れない植物が生い茂っており、湿度いっぱいの空気には土の臭いや花の匂いが混じっている。いつの間にか前日のマチュピチュよりも自分が興奮していることに気づく。時折すれ違うマチュピチュに向うバックパッカーと「オラ!」と挨拶を交わすのもいい。気分はリヴァー・フェニックスである。
帰りの車は、外を見ていると落ちるのではないかとドキドキするし、死ぬ瞬間を見るのも嫌だったのでひたすら寝た。


3日ぶり帰ったクスコは祭りも終わり、落ち着きを取り戻していた。多少空気も綺麗になっているような気がする。以前エジプトで治した歯がまた取れたのでその治療をしたり、日本に荷物を送ったりして数日を過ごし、本日の夜ペルーの首都リマに向う。そしてそのまま飛行機でメキシコの飛ぶ予定だ。さあ旅も残すところ2ヶ月程(帰国のチケットも購入)

2013年6月22日土曜日

コパカバーナ→クスコ



2013622日 コパカバーナ→クスコ


高地のためか夜十分な睡眠をとることができない。前日も夜何度も目が覚めた。

ボリビアの首都ラ パスを離れ、ペルーとの国境近くコパカバーナという街を目指す。この街は、ペルー・ボリビア両国にまたがるティティカカ湖という琵琶湖の12倍もある湖に面している。標高も3890mと富士山よりも高いところにある世界最高所の湖だ。またこの湖からインカ帝国が始まったとされるとても重要な場所だ。バスに乗るなりすぐに寝てしまい、気がついたときにはバスは既に湖岸を走っていた。眠りについた時はまだ街の喧騒の中だったので、どこまでも青い空と湖が広がるこの土地の美しさに目を奪われる。ポツポツと建つ家々や、酪農作業をする人々、家畜たちすべての色がとてもビビッドに見える。この色の見え方は僕が南米に抱いていたイメージそのものだった。
コパカバーナに到着してみると、イメージしていたよりもツーリスティックで、欧米人が好きそうなCaféなどが沢山あった。ヒッピー風の旅人も多い。宿を決め、とにかく横になる。久しぶりに陽のあたる部屋に滞在することができ、結局その日は夕方までぐっすりと眠ってしまった。
翌日、体はだいぶ軽くなった。まずは街の横にそびえる山に登ってみる。高所のためか、ちょっとした上り坂でも息が切れる。なんとか登り切ると、そこからは湖に浮かぶ太陽の島が見える。この島がインカ帝国の初代皇帝とその妹が降り立ったとされる島である。湖面は一切の波もなく、鳥の声しか聞こえない。午後からは太陽の島に行くツアーに参加しようと思っていたのだが、この山頂が気持ちよすぎたのでついついボーっとして、かなりの時間を過ごし、ツアー参加は諦めた。その日の夜行バスに乗り、ペルーに入国しクスコを目指す。

クスコはペルー有数の観光都市だ。バスを降りた瞬間に沢山のタクシードライバーやホテルの客引きに囲まれる。カタコトの日本語を話す人もチラホラといる。同じインディヘナでもボリビアの人々の顔とは違う印象を受けた。あらかじめチェックしておいた宿にタクシーで向う途中この街の美しさに驚く。街中の道はほとんどが石畳で、白い壁とオレンジの屋根で街全体が統一されている。盆地になっているので、少し山手にあるホステルからは街を一望することができた。チェックインを済まし、まずは街の市場へ向かう。八百屋やパン屋、服屋に金物屋、食堂、ジュース屋・・・ここまで活気のある市場は久しぶりだ。何気なく食べたスープがびっくりするほど美味しい。この街にはいくらでも滞在できるかもしれないとこの時は思った。僕がクスコに着いたのは、この街で南米三代祭りに数えられる「インティライミ」という祭りが行われる4日前だった。4日前と言えどもう本番さながらに盛り上がっている。街中が装飾に溢れ、日中から沢山の催しが開かれている。中央の広場では若者たちが息の合ったダンスを披露し、夜は野外フェス並のステージにペルーの歌手がたくさん来てライブをしていた。花火も上がる。

翌日はマチュピチュのチケットなどを手配するために朝から街中を回る。往復の交通手段とマチュピチュのチケットをすべて手配できたのが正午頃。ほっとしたのも束の間自分の体がおかしいことに気づく。まず体の節々が痛み、頭痛も激しい。なんとか宿まで歩いて帰り、横になるが腹痛で何度もトイレに行く。この症状どこかで経験したような・・・そうだインドだ。クスコは綺麗な街だが、街を行く車の量も多く、現在は祭りのため人の量も半端ない。空気の悪さは目に見えるようだ。ボリビアでインドやネパールとよく似ているという印象を持ったが、まさかこんなことまで一緒だとは。明日からは二泊三日でマチュピチュに向う。もう高額の入場料や交通費も払ってしまった。無事行けるだろうか・・・・。もうクスコから離れたいと思い始めている。

2013年6月17日月曜日

ウユニ→ラ パス



2013617日 ウユニ→ラ パス


見渡す限りの白の世界。まぶしすぎてとてもサングラス無しでは見ていられない。この旅の中で旅人から幾度と話を聞き、SNSなどで数え切れないほど写真を見てきたボリビアのウユニ塩湖に立っている。あまりの人気ぶりに天邪鬼の僕は「行かなくてもいい」と公言していたにも関わらず。ウユニ塩湖はアンデス山脈が隆起した際に、海底が海面ごと持ち上げられて取り残された場所だ。海水はやがて干上がり水分中の塩分が固まって真っ白の大地を作り出している。塩湖の中央にあるインカワシ島は珊瑚の化石で出来ておりここがかつて海底だったことを実感できる。確かにここに来なければ見ることのできない世界だった。

アタカマからウユニ塩湖まではツアーに参加したのだが、雪による国境の閉鎖などでやたらと時間がかかった。しかし、道中の風景はとても興味深いもので、標高4000mに広がる高原には複雑な形をした奇岩やフラミンゴが集う湖などが沢山あった。国境を超えた瞬間に人々の顔はヨーロッパ系からインディヘナに変わり、家々もコンクリートから日干しレンガに変わる。あまりに急な変化だったので体も気持ちもすぐにこの土地には慣れなかった。まるでネパールやインドのヒマラヤの村々に帰ってきたようだ。高地に住む人々の生活には共通した部分も多く、人々の厳しさと穏やかさを併せ持った表情もよく似ている。
旅が長くなり比較対象が増えれば増えるほど、新しい土地でも「まるでどこどこのようだ」という感想が増えてくる。世界は広くまだ見ぬところは山のようにあるが、地形や気候などが似ていれば共通している部分も多い。

ウユニからは寒いバスに一晩揺られ、ボリビアの事実上の首都ラ パス移動してきた。ラ パスは見ごたえのある街である。高い山々に囲まれ、すり鉢状になっている土地に、まるで寄生しているようにびっしりと家々がくっついている。街は坂だらけで、標高3650mもあるため息がすぐ切れてしまう。サッカーのボリビア代表がホームに強いのも納得である。この街に来るまでに見かけたボリビアの人々はほとんどがインディヘナだったが、行政機関が集まるここラパスにはヨーロッパ系の人々との混血の人も見かけるようになる。バーガーキングなどの大手ファストフード店もあり、車の量もかなり多い。排気ガスが多いせいか、喉をやられてしまった。これもインド・ネパール以来である。この街に滞在した2日間はかねてから噂に聞いていた、日本食料理屋や泥棒市、おばプロ(おばちゃんたちのプロレス)などを楽しんだ。久々に物価の安い国に来たのでもっと買い物をしたり美味しいものを食べたりすればいいのだが、時間の問題で移動することにした。


ここのところ移動の毎日である。また、ボリビアやペルーではツーリストが集まる街というかルートが決まってしまっている。そういう僕もそのコースを進んで行くのだが、どこか面白みにかけるのである。いや、全ては気の持ちようだ。と自分に言い聞かせ、いざペルーのマチュピチュに向けて移動をはじめる。

2013年6月12日水曜日

ビーニャ デル マル→バルパライソ→サンペドロ デ アタカマ



2013612日 ビーニャ デル マル→バルパライソ→サンペドロ アタカマ


プエルト バラスからバスで14時間かけて北上し、チリの首都サンティアゴ近くの街ビーニャ デル マルに着く。ここまで来ると気候はかなり変化し、人にとって適度な湿度と適度な温度になる。太平洋に面したこの街は、首都で忙しく働く人々が週末を過ごすリゾート地になっており、街を歩く人の表情に余裕を感じることができる。ここ3週間ほどずっと雨ばかりの生活をしていたので、久々の太陽に全身が喜んでいる。街に着いた日は亀のように日向ぼっこをしていた。
宿泊していた宿から歩いて30分のところに大きな漁港があり、朝早くその港に行くと獲れたての魚介類を漁師から直接買うことができる。友人が醤油とわさびを持っていたので、マグロやイカのブロックを買い刺身にして食べた。やはりプエルトモンで思ったとおり日本人の僕には醤油と白飯が必要なのだ。日本を出てから10ヶ月ぶりの刺身は本当にほっぺたが落ちるほど美味しかった。この街の海岸線沿いには沢山のペリカンやアシカも生息していて、散歩をしているだけで楽しい。

ビーニャから電車で20分のところにはバルパライソという世界遺産になっている街がある。山と海に挟まれた土地なのだが、山の上の方までカラフルな家々が所狭しと並んでいる。この街で有名なものは、いたるところに書かれているグラフティーや絵画で、子供のらくがきから有名な作家の作品まで街のあちこちで見ることが出来る。しかし、あまり治安は良くないようで、絵を見ながらどんどん住宅地の奥に進んでいくと、地元のおばさんにそれ以上は行ってはいけないと注意を受けた。ある友人も「中国人!それ以上行くと殺されるよ」的なことを言われたそうだ。命あっての旅、あえて危険な場所には行かない。

宿にいた旅人4人の次の目的地がちょうど一緒だったので、4人でアルゼンチンとボリビアとの国境近くサンペドロ デ アタカマに向かった。この移動は24時間かかるので、バスの中で一泊することになる。朝目を覚まし、窓の外を見ると、そこはもう石と砂しかない砂漠の世界が広がっていた。まるでモロッコに戻ってきたようだ。チリは縦にとても長い国(こちらの地図では長すぎて四分割されているほど)である。日本も同じように縦に長いのだが、チリのように一つの国の中に沢山の種類の気候や地形を有しているわけではない。つい先日までチリ南部で日本によく似た湿度の中にいた僕は、あまりの変化に呆然としてしまった。何日干しても乾かなかった洗濯物もアタカマでは一瞬で乾いてしまう。着いた翌日は街からすぐの場所にある月の谷という場所に行ってみる。遠くから岩に見えていたものは何と塩でできたとてつもなく大きな塊だった。ここから先はアンデスの世界だが、この山脈が海底から押し上げられたということがよくわかる。今は静かなこの場所は圧倒的な力と圧倒的な時間をかけてできたのだ。地球はそういう星なのだ。人はただその上でぴょんぴょん飛び跳ねている。


時間の問題で行くのをやめたボリビアだったが、意外に近かったという理由と友人たちと毎晩やっている大富豪(トランプゲーム)が面白いという理由で、急遽予定を変更し行くことに決めた。久々の高地、大丈夫だろうか・・・

2013年6月5日水曜日

カストロ→プエル モン→プエルト バラス



201365日 カストロ→プエル モン→プエルト バラス


前日までの長時間の船移動のため10時頃ゆっくりと目覚める。民宿のキッチンを借りて朝食を作り、薪ストーブにあたりながら食べた。外は相変わらずの雨模様だが小雨だったので街を散策することにする。カストロのあるチロエ島はチリ本土から長い間孤絶していたので文化や生活にも異なる点が多い。何よりも目に付くのはウロコ状の板壁を持つ家々だ。港町のため色もカラフル(漁から帰ってきた漁師がすぐに自分の家を発見できるように)、まるで童話に出てくるようで可愛らしい。これはプエルトモン以南のチリに言えることだが、ほとんどの建築が木造なので日本人には親しみやすく、木造独特の朽ち方も日本の漁村と似たような哀愁を感じる。世界遺産にもなっている教会や新鮮な魚介が並ぶローカルのマーケットを見たあと、バスでさらに田舎の教会を見に行く。途中、車窓から外を見ているとやたらと大きい鳥が飛んでいるのに気づく。よく見るとそれはペリカンだった。パタゴニアで野生のフラミンゴを見た時も驚いたが、今まで動物園でしか見たことがない動物の野生の姿を見られるのは嬉しい。しかも意外にみな人の生活圏の中で生きている。

翌日バスに乗り、チリ本土のプエルトモンへ。ここプエルトモンはロス・ラゴス州の州都だ。1ヶ月田舎町ばかりに滞在していたので、久しぶりの都会に目がくらむ。パタゴニアで緩々になってしまった警戒心を無理やり締め直す。この街の名物は何と言っても豊富な魚介類で、港に行くと市場にはカニ、イカ、ウニ、カイそして沢山の種類のサカナが並んでいる。市場の2階には小さな食堂がたくさん並んでいたので、なんとなく1件を選んで入ってみた。旅をしているとなかなか日本のように魚介類を食べるところは少ない。そんな中チリはかなり日本と同じような魚介類が手に入る。まずは山盛りのウニを注文してみた。出てきたのはお皿に山盛りのウニ。味は大量のレモン汁をかけただけ。はじめはすごい勢いで食べていたが、半分も食べないうちに飽きてしまう。ここで分かったことは、日本人には醤油と白飯が必要という事だった。

アウストラルでは何もない街に8日間も滞在していたのに、ここのところ毎日移動している。翌日もプエルトモンからバスで30分かけてプエルトバラスに移動。少し移動しただけなのに雰囲気は一変する。まず街がとても綺麗でゴミがほとんど落ちていない。というのもこの街にはドイツ人の移民が大量に入植しているので建っている家々や歩いている人々もドイツ系だ。ドイツ人がスペイン語を話しているので変な感覚になる。街はジャンキウエ湖という静かな湖に面しているが、湖の向こう側には富士山そっくりのオソルノ山がそびえている。その景色は千円札の裏側にそっくりだ。山裾の森まで足を運び2時間程トレッキングしてみたが、日本の山を歩いているかのような感覚になった。このプエルトバラスにという町はまだ日本人にはあまり知られていないようだが、本当に落ち着いておりゆっくりできるので、旅に疲れた人々にはぜひおすすめしたい。

この街でパタゴニアともお別れである。ここから一気に北へ向かう。連日の雨ともおさらばである。


※起きたことを箇条書きしただけの内容ですみません。