2013年2月26日火曜日

コペンハーゲン→ストックホルム→エスキルステューナ




2013226日 コペンハーゲン→ストックホルム→エスキルステューナ


プラハからバスで12時間。ドイツを一気に飛ばし、デンマークのコペンハーゲンまでやってきた。この国には彼女がワーキングホリデービザで滞在している。コペンハーゲンの中央駅はけして大きくはないが、とてもシンプルで落ち着いた雰囲気の建物。その駅舎のマクドナルドで時間を潰していると、彼女が向こうからやってくる。ヨーロッパに入ってからバスターミナルや駅で、恋人たちの別れや再会の瞬間を数多く見てきた。恋人たちは涙ながらに別れを惜しみ、涙ながらに再会を喜ぶ。もちろん硬い抱擁と熱い接吻もついている。さて、自分たちは半年ぶりに再会する時どうなるのかなと思っていたが、日本を出た時と同様お互い片手を上げるだけだった。いつもと違う場所だからといって、何が変わるわけではないのだなとしみじみ思う。

コペンハーゲンでは美術館やウィンドウショッピングを楽しみ、すぐにスウェーデンのストックホルムに移動する。小さなコペンハーゲンに比べるとストックホルムはかなり大きな街だ。そして何よりも驚いたのは街を歩く人種の多さである。ヨーロッパに入ってからちらほらと移民を見ていたが、その中でもスウェーデンは群を抜いて多いように感じる(もちろんこれから行く西欧諸国もたくさんの移民がいるのだろう)。日本人の自分が街を歩いていても全く違和感はない。現在ヨーロッパでは移民に関して様々な問題があると聞いていたが、この街を歩くと納得してしまう。もし他の国と接することに慣れていない日本が同じ状況になれば、確実に混乱が生じ、差別的な運動がそこら中で起こるだろう。自分たち固有の生活がなくなってしまうという危機感を持つと思う。それほど移民が多いのだ。そしてまた、移民同士や移民とローカルの間に、この国で生まれた子供達も多い。様々なアイデンティティを持った人々がこの国の中で共に暮らしている。

ストックホルムに半日滞在し、スウェーデン人の友人に会いにとエスキルステューナいう街まで移動する。ここは工業が盛んな街だ。特にすることもないので、それから3日間スーパーで食材を買い、一緒に食事を作り、お酒を飲みながらひたすら友人と話をして過ごした。その友人もイラン人の父親とスウェーデン人の母親の間に生まれている。彼女自身10代の頃は自分が何者なのかかなり悩んだらしい。そんな彼女からスウェーデンに関する様々な話を聞く。その中でも面白かったのは、スウェーデン人の自立心がとても強いという話だった。小さい時に、友人の家に遊びに行くと、ちょうど昼食の時間になった。その家の母親は自分の家の子供だけをダイニングに呼び昼食をとらせ、僕の友人はひたすら待っていたという。おもてなし大国イラン人の血をひく彼女にはかなりショッキングな出来事だったらしい。その自立心の強さは親子の関係でも例外ではない、3世代がひとつの家に住むことはほとんどなく、全く会わない人も多いという。離婚率も高い。もちろんこれは友人の意見なので一概には言えないのだろうが、福祉国家スウェーデンもそんな国民性だからこそ成り立つのかもしれない。この国は日本で夢の国のように扱われているが、様々な問題を抱えていることが分かった。マイナス面ばかり書いてしまったが、さすがはデザイン大国スウェーデン、街を歩いている人々のファッション観察や百貨店周りをするだけでとても刺激的だ。物価の高さはこの旅一だが・・・

最後に「この季節にここまで来たならば、オーロラを見に行くべきだったかな?」と友人に相談すると、「私も見に行ったことがないわ。あんなの空が光ってるだけだからクラブと一緒よ。」と教えてくれた。(笑)

2013年2月18日月曜日

クラクフ→プラハ




2013218日 クラクフ→プラハ


ウィーンのバスターミナルで指定された番号の下で待っていたが、出発時間になってもバスが全くやってこない。その時ちょうどターミナルから出ていこうとするバスを見ると、ポーランドのワルシャワ行きと書いてある。嫌な予感がして動いているバスのドアを叩き、「これはクラクフに行きますか?」と聞けば、何も言葉を発さず頷かれた。間一髪だった。そんなこんなでポーランド南部の街クラクフに到着。着いたのは朝の4時だったため、バスターミナルも市バスも動いておらず、寒いなか2時間程待つ。

この街に来た目的はたった1つ。この街から1時間半程の距離にあるアウシュヴィッツ強制収容所に行くためだ。アウシュヴィッツに関しては説明はいらないだろう。第二次世界大戦時、ナチスドイツがポーランドの政治犯、ユダヤ人、同性愛者、ロマ(ジプシー)をヨーロッパ各地からここに輸送し、収容していた施設である。イスラエル以降ユダヤ人に関して考えたり本を読んだりする機会が増えていた為、ヨーロッパに行った際はアウシュヴィッツには寄ろうと考えていた。施設内に一歩足を踏み入れると辺りを包む空気が変わった。もちろんこれは僕のイメージが作り出したものだろうが、土地はそこで起きたことの空気まで記録しているような気がした。カンボジアでツールスレン博物館やキリングフィールドに行った時と同じように常に鳥肌がたち、写真を撮る気にはなれなかった。戦後、ニュルンベルク裁判で連合国側はナチスドイツがこの収容所で400万人を大量虐殺したと嫌疑をかけたが、現在その数字は信じられてはいない。様々な研究者が調査に入っているが、その数字は技術的に不可能だという結論が出されている。ガス室よりもチフスなどの感染病で亡くなった人がかなり多かったのではないかという説もあるそうだ。たとえ数字が減ったとしてもここでナチスがやっていたことは変わらない。しかし、ナチスドイツが一方的に悪いのか?ユダヤ人やロマや同性愛者が悪いという話でもなく、なぜドイツが第一次大戦後にそういった状況になっていったのか?それは他の国々が全く関係ないことではない。日本さえも。この一方的に原因や責任を押し付け、事件を解決させようという行為は戦争に限らず僕らの日常の中にも山のようにある。例えば何か残虐なニュースがあれば徹底的に犯人の素性を調べ、いかに変わった人間であったか、自分たちとは違った人間であったかを強調し報道される。ただそれは周りが安心したいだけなのではないか?ナチスもユダヤもロマも同性愛者も全て人である。僕と変わりはない。置かれる立場ひとつで人はどのようになってしまう。

クラクフには1泊だけしてチェコのプラハに向う。夜行バスがなく昼間に10時間半の移動。ヨーロッパは土地に起伏が少なくどこまでも同じような景色が続くため、窓の外を見ていても退屈してしまう(はじめは興奮していたが)23時頃プラハの宿に到着した。またまたビールを飲んで倒れこむ。プラハの観光客の多さは、今まで回ったヨーロッパの街の中で1番だった。しかし、意外に街は小さく1日もあれば回れてしまう。お隣の国の首都ウィーンとは全く違った顔を持っている。バスからの景色は似ているのに、街に入ると全く雰囲気が違うというところが面白い。

2013年2月12日火曜日

ザグレブ→リュブリャーナ→ウィーン(ビエナ)




2013212日 ザグレブ→リュブリャーナ→ウィーン(ビエナ)


ドブロヴニクから夜行バスでクロアチアの首都ザグレブへ。コーヒー1杯で3時間粘り、そのままスロヴェニアの首都リュブリャーナに向かった。相変わらず移動ばかりの日々である。

スロヴェニアに来たのもまた旅先で出会った友人が勧めてくれたからである。面倒くさがりの性分のため、あまり下調べということをしない。しかしこうして勧められた場所に来てみるのは全く想像ができない場所なので面白いのである。リュブリャーナは首都と呼ぶには随分小さい。街の中央に川が流れ、道はすべて石畳、小高い丘の上にはお城が建つ。典型的なヨーロッパの街だ。また街の外れには森ひとつがそのまま公園になっていた。真っ白の公園の中を散歩していると、とても寒いのにたくさんの人が散歩している。みな家族やペットと一緒である。こういったところもヨーロッパに来たのだなと感じさせる。つまりは日々の中で何が最も大切かということ。僕の印象だが、ヨーロッパでは家族との時間が第一にくる。そしてそれを社会が共有し、様々な面でそれを尊重するようにできていること(ワークシェアリングや男性の育児休暇の取得のしやすさなど)。これから北へそして西に向かうに連れますますそういった事を感じるのだろう。また、この街の近代美術館も小規模ながらとても見やすく、1時間程かけて行った湖も特に何があるわけではないがよかった。宝ヶ池みたいで・・・。

リュブリャーナからはバスがなかったので、ヨーロッパで初めて電車に乗りオーストリアのウィーンへ移動する。電車が着いたのは23時を回った頃で、僕は雪の中重いバックパックを背負い1時間近く歩いて宿に着いた。ヨーロッパに入ってからかなりの節約生活をしているが、この日ばかりはビールを買い、一気に飲み干すとそのままベッドに倒れ込んだ。
ウィーンに関して僕が知っていることは芸術家クリムトシーレが活躍した街だということ、大学の後輩が大好きなウィーン少年合唱団がいるということ、そしてくるりが『ワルツを踊れ』というアルバムをこの街で作ったということぐらいである。とりあえず街の中心にある美術館が多数集まったエリアに行ってみる。ここにあるレオポルト美術館はエゴンシーレの作品で世界最多のコレクションを持っている。シーレは画集を何冊か持っているほど好きだが本物を見るのは初めてだった。エントランスを抜けるとすぐにシーレのコレクションルームになる。ずっと本で見ていた絵の本物が目の前にある。しかもかなりの数。どんどん自分のテンションが上がっていくのがわかる。まるで夢を見ているようだ。平然を装ってはいるが、目頭が熱くなってくる。このために5ヶ月かけてここまで来たのかもしれない。それぐらいの感動だった。シーレの感動が冷めない状態で、同じ美術館で行われていた日本美術の企画展(これは原発問題も絡めてあり、福島の写真家の作品もあった)に入る。なんとなく入っただけだったが、僕はシーレ以上にこの展示に感動してしまう。墨絵や能面、浮世絵や書そのどれもが、まるで毛細血管の先をこそぐるように、僕の感性を刺激する。今まで日本美術がこのように見えたことはなかった。独特の間とでも言うのだろうか。いやそんな簡単に言葉にできるものではない。半年かけて他の土地の様々なものを見てきたからこそ、こちらも受け取る準備ができていたのだろう。僕はただただ誇らしかった。他の鑑賞者に対して「どうや!かっこええやろ!」と言いたかった。しかし「わっかるかなーわっかんねーだろーなー」とも言いたかった。ある意味ここで旅はうまくまとまってしまったのではないかとさえ思える。このシーレと日本美術の展覧会はそれほど良いものだった。最高だった。もちろんまだ旅を続けるのだけれども。

その他にもウィーンではフンデルトヴァッサーが手がけたミュージアムやくるりの曲のタイトルにもなっているカフェハヴェルカ(カフカやヘンリーミラーも通った歴史あるカフェ)、友達の勧めてくれたかっこいいH&Mを見に行ったりした。とにかくウィーンは飽きない街だ。お金があればクラシックコンサートにオペラ、数え切れない美術館に博物館、おしゃれなお店も山のようにある。しかし僕は完全なる美術館貧乏の為いろんな事を諦めなければならなかった。もちろん食費も削る。毎日自作のサンドイッチとパスタだけ、そんな食生活に完全に飽きている。王将に行きたい。心から。

※ワークシェアリングはけして家族との時間の為に始まったわけではないですが、それを受け入れられるということは、人々の共通した価値観があるからではないかと考えました。


2013年2月6日水曜日

ベオグラード→コトル→ドブロヴニク




201326日 ベオグラード→コトル→ドブロヴニク


ブルガリアの首都ソフィアからセルビアのベオグラードへ移動。バスからの風景はどこまでも木のあまり生えていない山と広大な畑、牧草地が続く。僕の描いていた典型的なヨーロッパの風景。ヨーロッパはありえない寒さで「今から向うのはやめたほうがいい」と旅行者に言われていたが、ソフィアは思いのほか暖かかった。しかし、ベオグラードでその言葉を痛感する。それこそ寒いを通り越して痛いのだ。鼻や耳が取れてしまいそうである。

ベオグラードには99年にNATO軍の空爆によって破壊されたビルがそのままの状態で残っている。爆撃によって破壊されたビルは今まで見てきた地震などの自然災害で崩壊したものとは全く違った。ひと目でどの方角から爆撃されたかがわかる。ここバルカン半島(セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、アルバニア、ブルガリア)はどの時代も常にどこかで争いが起きている。第一次世界大戦もここから始まっているし、70年代、80年代、90年代そして0年代さえも・・・それがこの半島がヨーロッパの火薬庫と言われる所以である。国の体制や連邦も次々と変わる。今街を歩く自分と同じ年の若者もそういった争いを経験しているのだ。どの国、民族、宗教の視点に立つかによって見え方も変わってくるので一概にどこが悪いというものでもない。

寒いセルビアは一瞬で通過し続いてモンテネグロのコトルという街に移動する。モンテネグロは人口62万人、面積も福島県と同じ程の小国だ。セルビアからモンテネグロに入るとすぐに深い渓谷に入る。両側に迫る岩肌は地層がはっきりと識別でき、ダイナミックに湾曲し複雑な谷を作る。また海岸線はリアス式海岸になっており穏やかな海が広がる。当初から行こうと決めていたわけではなかったので何の期待もしていなかったが、それが逆に新鮮な驚きをもたらしてくれた。複雑な湾の最深部に世界遺産コトルの街はある。周りを高い山々に囲まれ天然の要塞になっているのでかつてこの街は相当栄えたようだ。城壁に囲まれた旧市街は古い建物が綺麗に残っており、歩いているとまるでタイムスリップしたかのような感覚になる。しかも観光客はオフシーズンのためほとんどいない。

翌日はコトルから北上しクロアチアに入国。ここまで毎日出入国を繰り返しているとまるでスタンプラリーをしているような気分になってくる。まずはアドリア海を望むドブロヴニクという街にやってきた。旅の途中で出会った友人が勧めてくれた場所だったのだが、峠を超えてバスから夕日に照らされたこの街が見えた瞬間、友人が勧めてくれた理由を一瞬で理解できた気がした。本当に美しい街である。この街ではSOBEという民宿に宿泊することにする。僕がお世話になった家はセルビア人の家族が経営しているのだが、旦那さんは91年のクロアチア独立の際に大学の教授という職を失ってしまったらしい。実はこの宿を紹介してくれたのはコトルで会ったおじさんなのだが、彼はクロアチアからモンテネグロまで逃げてきたセルビア人だった。複雑な問題は現在進行形だ。この土地を旅していると国というものは随分と危ういものなのだと思う。誰が自分の国が無くなったり、半分に別れてしまうと考えるだろうか。逆に言えば、そういった意識を持たなくていい日本という国()はかなり恵まれた立地にある。

小さい時テレビで見ていた戦火の下にはこうも美しい景色があり、人々の日常があったのだ。それは来てみなければ分からなかった。けして自分とは全く関係ない土地で、関係のない人が、キチガイに銃を撃ち合っているわけではない。ここにいるのは自分と同じ様に日常を送っている人々だ。

それにしても綺麗な海である。このアドリア海では豚も空を飛ぶ。



※ドブロヴニクでお世話になっている宿はHP、メールアドレスを持っていませんが、本当にいい宿です。アパートタイプで部屋にキッチン、シャワー、トイレ全部ついています。夏場に長期滞在する人用の宿ですが、オフシーズンの今12ユーロ(この辺りのドミと一緒)という破格で泊めていただいてます。その代わり宣伝しろということだったので、情報だけ載せます。電話したらカタコトの英語を話せるおばさんが出てくれます。

◆VWKANOVIC' SLOBA
→IVA VOJNOVIC'A25
→020‐332‐075
地図


2013年2月1日金曜日

イスタンブール→ソフィア




201321日 イスタンブール→ソフィア


トルコをぐるっと周り、イスタンブールに帰ってきた。1月いっぱいはトルコにいようと決めていたので、この街で4日間過ごすことにする。約2週間ぶりに帰ってきたイスタンブールはかなり寒くなっていた。連日雨が降っている。

この4日間でのミッションは新しい靴を買うことである。今回の旅に僕が持ってきている服や道具達(あえてこう言う)との付き合いは長い。バックパックと防水のジャケット、ウエストバックは8年前。寝袋、ダウン、そして靴は7年前から使っている。どれも丈夫でかなり愛着のあるモノたちいや旅の仲間だが、この旅でかなり酷使をしているので皆確実にボロボロになってきている。その中でも最初に悲鳴を上げたのは靴だった。7年前はまったく水を通さなかったその防水生地は、もはや瞬時に水を通すようになっていた。ソールもすり減り歩いているとパカパカと音を立てる。これから向かう雪のヨーロッパでこの靴を使っていれば確実にしもやけになってしまうし、いかんせん寒すぎる。本当はアウトドアギアが安く買えるアメリカまで使い通し、そこで買い換えようと思っていたが、かなり手前で限界がきてしまった。しょうがないのでイスタンブールの大型ショッピングモールやアウトドアショップを回る。トルコの物価は日本とさほど変わらない。今後の旅程を考えればいいものを買ったほうがいいのだが、アメリカで目星をつけていたものがあったので、それまで安いもので保たせようか悩む。何時間も街をさまよい歩いた挙句、高いわけでもなく安いわけでもない中途半端な選択をした。モノを買う時はよくこういうことをしてしまう。まあしかし、長く使っていれば愛着も湧いてくるだろう。7年間僕の足を守り続けた靴とはこの街でお別れである。本当はガラタ橋という有名な橋から海に投げ入れたかったのだが、昨今の環境意識の高まりを考えるとあまりよろしくない。しょうがないので靴に申し訳ないなと思いつつ道端のゴミ箱に入れた。靴よ、本当にありがとう。

そんな悲しい別れのあったイスタンブールを後にし、僕は本日ブルガリアの首都ソフィアまで移動してきた。ついにヨーロッパに突入である。ソフィアは旧社会主義圏の街であり、どこか無機質で寂れた印象を受ける。そこら中で話しかけてくるトルコ人とは違い皆こちらに関心を向けない。お店の店員もそっけない。早朝バスで到着し、宿までの道を歩いていると、気が狂ったようなおばちゃんが前から歩いてきて、わかりやすい英語でこう言った。
「出てけ日本人!死ね!」
でも僕はこの街の雰囲気が好きだ。以前見たブルガリア映画『ソフィアの夜明け』の中にいるようで興奮する。残念ながら明後日にはお隣のセルビアに移動するので、短い中で楽しみたいものである。早く起きて夜明けも見よう。

※トルコは本当にいい国です。安心して(もちろん詐欺もありますが、気をつけていれば大丈夫)回ることができ、ゆっくりと物事を考えることができました。イスタンブールはこの旅で初めて住んでみたいと思える街でした。皆様もぜひトルコへ