2013年4月25日木曜日

マドリード→ブエノスアイレス




2013425日 マドリード→ブエノスアイレス


バルセロナから夜行バスでマドリードに向かい、そのまま空港へ。約7ヶ月半のユーラシアの旅が終わった。スペインはお金を取られたりと苦い思い出もあるが、本当に面白い国だった。ご飯は美味しく、街の様々な場所で音楽を聞くこともできる。何よりもこの国の人々の距離の取り方は特殊だ。ネパールのトレッキング中もスペイン人と話しながら同じことを考えていたが、会ったその瞬間から空間的にも精神的にもかなり近いところまで彼らは入ってくる感じがする。その分人と仲良くなるのがとても早い。なかなか間合いを詰められない人間からすると羨ましいかぎりである。

飛行機に揺られること13時間で、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着。ついに地球の反対側まで来た。空港からシャトルバスで街の中心へ。朝焼けに照らされるバスからの風景は、今までいたヨーロッパ程綺麗に整理されておらず、違う大陸に来たことを実感させてくれる。バスの終着点から宿に向う方法をバス会社のスタッフに聞くと、地下鉄がベストだと言うが、荷物から絶対に目を離さないほうがいいし、常に周りに注意することとアドバイスを受ける。地下鉄の駅周辺は確かにあまり安全そうな雰囲気ではない。スペインでお金を取られたから余計に警戒しているということもあるが、これが南米か・・・えらいところに来たなと思う。なんとか宿に到着し、宿の方から説明を受けると、どうやら僕が乗った地下鉄の駅の近くに大きなスラムがあるらしい。自分のセンサーが間違っていないことを確認できてよかった。

ブエノスアイレスに滞在した4日間は、特に何をしたわけでもなく街の中をブラブラと歩いた。南米のパリと言われるだけあって街の中心はヨーロッパ風の古い建物が並ぶ。骨董市や美術市などが沢山あり、なかなかセンスも良い。もしこのまま日本に帰るのならば欲しいモノがいくつかあったが我慢。女の子も可愛い子が多く、この街は歩いていて全く退屈しない。
かつてブエノスアイレスに留学していた友人に勧められたラテンアメリカの現代美術をコレクションしている美術館(MALBA)にも行ってみる。ここで何よりも感動したのはミュージアムショップである。今まで訪れた国々でだいたい美術館に立ち寄ってきたし、ミュージアムショップも必ずチェックしてきたが、ここのショップは一番面白かった。ここよりも品揃えが多いところは山のようにあるが、置いてあるものの独自性が強いのである。元々アルゼンチンの音楽やファッションブランドが好きなのだが、彼らの表現の中には言葉で言い表しにくい共通した特殊な空気のようなものがある。きっとそれがアルゼンチンらしさなのだろうが、なぜこの土地でその感覚が生まれるのかは旅の中で考えていきたい。とにかく面白い街だ。

他にもこの街では旅で出会ったアルゼンチン人やインドのヴァラナシで一緒に遊んでいた日本人の旅人と再会した。世界の全く違う場所でこうしてまた友人と再会するのはとても不思議な気分である。

◆MUSIC
・Juana Molina
・Mono Fontana
・Fernando Kabusacki
・Alejandro Franov

◆Fashion


・Marina Massone  http://www.marinamassone.com/

2013年4月19日金曜日

バルセロナ




2013419日 バルセロナ


前回の投稿からほとんど時間が経っていないが、ちょっとした出来事があったので書いておこうと思う。

ビルバオから夜行バスでカタルーニャ州の州都バルセロナへ。さすがに大きな街に向かうバスは混んでおり、あまり寝ることができなかった。早朝6時にバス停に着き、歩いて宿に向かう。宿のスタッフの出勤を待ち中に入れてもらうが、15時までチェックインは出来ないという。少し横になりたかったのだがしょうがない・・・とにかく時間までブラブラと街を歩くことにする。
ビルバオも暑かったがバルセロナもかなり暑い。上着を脱ぎたいがスリの多いこの街ではジッパーのついたポケットのある上着を着ていた方が安全である。公園やら市場を回ったあと、まだ時間があったのでサグラダファミリアを見に行くことにする。この街には3日間ほど滞在する予定なので、中には入らず外観を見ながら何枚か写真を撮り、宿に帰ることにした。同じ道を歩くのはあまり面白くないので、来た道とは全く違う道を選び5分ほど歩いた頃だろうか、1人の男性に声をかけられる。

「すみませんスタジアムにはどうやって行くのでしょうか?」

なぜに地元の人ではなく明らかに観光客である自分に道を聞くのか不思議に思ったが、彼がスペイン語を話せないと分かり納得した。現在地を確かめ、「きっとこう行くのがいいのではないか」と説明していると、いきなり後ろから大声で

「警察だ!!動くな!

という声が聞こえる。振り向くとそこには警察手帳をかざした男が二人立っていた。

「お前たちは今ドラッグの売買をしていただろう!!パスポートを見せろ!

横の男が素直にIDカードとパスポートを出した。全く悪いことをしていないので僕もパスポートを見せる。僕の顔とパスポートの顔を入念にチェックした後、

「カバンを開けろ!中にドラッグが入っているはずだ!!

ときた。横の男は素直にカバンを開け、中のものを色々調べられている。僕もカバンのジッパーを開いた。ここで横の男は何もなかったからなのかもう行っていいと言われた。ん?と思いながらも、カバンを開いて見せると2人の警察はカバンに手をつっこみ中の物を調べ出す。1人が僕の財布をカバンから出した時、もうひとりの男が

「どれくらい滞在しているのだ?」

等と質問をしてくる。しかし、僕は視野の隅で財布から現金を抜き取りポケットに入れるのを見ていた。ここでやっと気づく。こいつらは偽物だ。

OKだ。こちらの勘違いだった。行っていい」

「まて、おまえ俺の金返せ!そのポケットに入れた金だ」

「なんのことだ?そんなことするはずないじゃないか」

僕はそいつのポケットに強引に手を突っ込み、中の金に触るが、相手はその手を振り払い逃げる体制をとる。なんとか数枚の金はつかめたが、まだほとんどはやつのポケットの中だ。2人の自称警官は走り出した。その後を追う僕。

「あぁ、こんなことなら何かお腹に入れておけばよかった・・・」

2人の詐欺師が曲がり角を曲がった先には、先程僕にスタジアムへの行き方を聞いてきたチビでデブの男が車のエンジンをかけて待っていた。車に乗り込む服装も顔も何もかもダサい2人。僕はとても追いつくことが出来ない・・・。呆然と車を見送る。
何人かの人が寄ってきて

「あれは偽物の警官だよ」

と教えてくれる。知っています・・・見ていたなら助けてください・・・。財布を確認すると、これから向かうアルゼンチンの為におろしたお金のほとんどを持って行かれていた。かなりの額である。

トボトボと宿まで歩いて帰る。警察手帳をちゃんと見ればよかった。車の写真撮ればよかった。スティーブンセガールみたいに車の屋根につかまればよかった・・・全ては後の祭りである。とりあえずチェックインを済ませる。宿のスタッフは日本好きらしく、サムライスピリットがどうだこうだと言ってくるが、そんなスピリットはどこへやら、現在は簡単に自分の間合いに入られこんな様だよと言ってあげたい。警察の場所を聞き、けして戻ってくるワケではないとわかっていながらも被害届を出しに行く。しかし警察の繁盛ぶりったらない。長蛇の列が並び、僕のあとからも次々に被害者がやってくる。みなお互いに

「君は何を盗られたんだい?」

と腹立たしさを超えた諦め笑みを浮かべながら話している。この空間には国籍や民族を超えて同じ境遇と感情を皆が共有しており、とてもピースフルな空気が流れていた。本物の警察もとても親切でフレンドリーだ。

インターネットで調べると、偽警察にご注意くださいという記事が出るわ出るわ。皆さんスペインに行かれる際は、スリはもちろんのこと偽警察にもご注意ください。

さあ気を引き締めて強盗の本場南米へLET’S GO!!!

2013年4月16日火曜日

サンティアゴ・デ・コンポステ-ラ→ビルバオ




2013416日 サンティアゴ・デ・コンポステ-ラ→ビルバオ


リスボンから再度スペインへ入国し、サンティアゴ・デ・コンポステ-ラという街に到着。ここはエルサレム、バチカンに並びキリスト教三大聖地のひとつだ。フランス、スペイン、ポルトガルからたくさんの道がこの街に続いており、その道を巡礼者たちが歩いてやってくる。街の中はバックパックを背負った人で溢れかえり、旅の終りを皆でたたえ合い握手や包容をしている。きっと巡礼の中で何度も顔を合わせ励まし合ってきたのだろう。街の中心にそびえ立つカテドラルでミサに参加したが、歩いてこの街に来たわけではない自分は少々浮いてしまった。宿にいるのもほとんどが巡礼者で、他の街のホステルとは違いかなり落ち着いた雰囲気である。今回の旅の中で僕もこの巡礼路を歩こうと考えていたのだが、時間の問題(ツェルゲン協定)で見送ることにした。また年を重ねてからじっくり歩こうと思う。

聖地を後にして、バスク地方の中心都市ビルバオへ。このバスク州、そしてサンティアゴ・デ・コンポステ-ラのあるガリシア州、次に向かうバルセロナのあるカタルーニャ州はどこも自治権を持っている。州の公用言語もスペイン語とそれぞれ独自の言葉になっているほどだ。今までの旅の中でこの3つの土地出身者は誰ひとりとして自分をスペイン人とは言わなかったし、スペイン語も話していなかった。また、バスクに関しては、一見スペイン人や他のヨーロッパ人と同じような顔をしているが、血液を調べるとかなり特殊な人達らしい。が故に過去にはテロ行為も辞さない独立運動を行ったりとかなり民族意識が強いエリアだ。
ちょうど着いたのが日曜日だったため、もしタイミングが合えばヨーロッパで心残りだったサッカー観戦をしようと、宿のスタッフに「今日アスレティック・ビルバオのホームゲームはあるかな?」と聞いてみると、パソコンで調べてくれた。「ワォ!あなたラッキーよ!今日はホームでレアル・マドリード戦があるわ!」棚からぼた餅である。早速スタジアムにチケットを買いに行くと、一番安いゴール裏の席でも50€もした。どうやらレアル戦なのでいつもよりかなり高いらしい。まあしょうがないということでこのチケットを購入し、夜再度スタジアムに向かった。このアスレティック・ビルバオは特殊なチームで、バスク地方出身の選手しかいない。(正確にいいうと2代前までバスクにいたというのでもいいらしい。つまりはバスク人)バスク地方は人口も大きさもほぼ茨城県と一緒である。しかもリーガエスパニョーラ(1)には2部に落ちたことがないチームは3チームしかなく、それがバルセロナ、レアル・マドリード、ビルバオなのである。茨城選抜でずっとJ1で戦っていると思えばいいだろうか?いやそんなレベルではない。このチームはバスクの人々の象徴なのだ。ファンが熱いのも納得である。ゴール裏という一番熱いファンのいるエリアでの観戦だったが、ビルバオの応援をしている分には安全だった。しかし、横に座っていた人が隠れレアルファンだったようで、レアルのゴール時に大きなガッツポーズをしてしまった。これをビルバオファンは見逃さない。まず全員に中指を突き立てられ、レアルがファウルをするたびに罵られていた。彼も耐えられなかったのかどこかにいってしまった。他の場所では乱闘騒ぎもあり、レアルファンのおじさんが足を引きずりながら警備委員に連れていかれた。レアルマドリードはスペインの首都のチームであり、スペインの象徴のようなものだ。ビルバオファンが熱くなるのもしょうがない。結局レアルが30で勝利したのだが、ヨーロッパにおけるサッカーは、様々な人、民族、国の人生?を抱え込んでいるのだなとしみじみ思った。

それにしてもビルバオは本当に良い街である。周りは山に囲まれ中心には川が流れている。まるで京都だ。日が落ちるのが遅いせいか、人々はインラインスケートやスケートボード、自転車、ランニングと各々の方法でスポーツを毎日楽しんでいる。また、散歩している犬の種類の豊富さもツボである。こちらは基本ノーリードなのだが、道に飛び出したり、人に吠えかかる犬はいない。みなきちんとしつけられている。ロンドンの記事でも書いたが、自由と責任の関係をしっかりとみな理解しているように感じた。この旅の中で様々な都市を訪れたが、1番住んでみたいと思う街だった
               

2013年4月12日金曜日

リスボン→モンサント→ポルト




2013412日 リスボン→モンサント→ポルト


今回の旅29カ国目ポルトガルに入国。ポルトガルに関してはなぜか親しみがある。僕は小学生の頃からサッカークラブに所属していたが、当時のコーチが練習や試合で使う数字を全てポルトガル語で言うことにはまっていた。当然僕たちも1~10までの数字を覚えさせられる。これが意識的に覚えた初めての外国語かもしれない。おかげで僕は英語の全く通じないこの国で数字だけはちゃんと理解することができる。17年越しにコーチに感謝である。

まずはポルトガルの首都リスボンへ。夜遅く宿に着いた僕に宿のスタッフの一言目は、「ようこそ!疲れただろ?お腹減ってないか?スープがあるけどいるかい?」だった。チェックインよりも先にまずあったかいスープ。こんなホステルはなかなかない。いや初めてだ
。しかも彼だけでなくこのホステルのスタッフはみな親切でいつも英語の話せない僕に気を使ってくれていた。ホステルの居心地の良さはその街の印象にも大きく影響する。また、この宿では日本の大学に7年通っているという韓国人の女性とも会った。教育社会学を専攻している彼女と西洋と東洋の差異、日本人男性の特殊性、今後の東アジアに関してなどたくさんの話をした。リスボンはトータルで2日もいなかったが、ホステルと彼女のおかげでかなり充実した滞在になった。

リスボンから丸々1日の移動の末モンサントという田舎町に移動してきた。町というよりは村である。この村は岩山の先にへばりつくように存在している。そして面白いのは岩に寄生するように家が作られているのである。18時頃、まだ外はかなり明るいが村にはほぼ人は見当たらない。みな家の中に入ってしまったのだろう。山の頂上には城壁(これもまた半分は天然の岩だ)が残っており、そこに登ってみる。周りは360度の大パノラマである。イベリア半島が全て見えているのではないかとさえ思う。本当に久しぶりに全身で興奮しているのがわかる。移動の連続で疲れているにも関わらず、全く疲れを感じない。まさにナチュラルハイの状態である。たった一人で岩山の上に2時間以上いただろうか。ヨーロッパに関して思いを巡らす。木の文化の日本に対してヨーロッパは石の文化である。この村はまさにほとんど石でできており、まさにヨーロッパの原型と言ってもいいのではないか。すぐに建てられる木の家に対して石の家はその何倍も時間がかかる。それひとつとっても時間の捉え方や、生活の仕方などが日本人と全く違うことがわかる。後は牧畜と麦というキーワードだろうか。米の栽培には平地が必要だが、麦は丘などでも畑を作ることが出来る。また、残った土地は全て家畜のための牧草地に変えることが出来る。そうやってあまり木の生えていないヨーロッパの景色が出来上がったのだろう。かつてここから見えるすべての土地が森に覆われていた頃は一体どんな世界だったのだろうか。

モンサントを出るバスはなんと早朝7:151本だけらしい。結局この村に滞在できたのはたった13時間だった。宿代が安ければもう少し滞在したかったのだが・・・またバスに揺られポルトガル第2の都市ポルトへ。ポートワインで有名なこの街にはたくさんのワイン蔵があり、いたるところで試飲をすることが出来る。レストランやカフェでもワインはめちゃくちゃ安い。酔っ払いながら街をうろつく。建物の壁面には色とりどりのタイルが貼られており、それを見ているだけで楽しい。陶芸に関わる人にはおすすめしたい街である。

2013年4月7日日曜日

フェズ→シャウエン→タンジェ→タリファ→セビーリャ




201347日 フェズ→シャウエン→タンジェ→タリファ→セビーリャ


メルズーガから夜行バスで再度アトラス山脈を超える。朝方フェズという街に到着。当初この街にも数日滞在する予定だったが、砂漠の居心地の良さについつい長居してしまったので今回は経由するだけにする。バスを乗り換えシャウエンという街を目指す。バスからの車窓はどこまでも広がる緑の草原で、家畜も駱駝とヤギから牛や馬、羊に変わってくる。アトラス山脈を挟むだけで全く違う景色になるのだ。

ショウエンは山間部にあるさほど大きくない街だが、ここに世界中から旅人が集まるのはほとんどの建物が青色に塗られ、とても幻想的な景色を見せるからである。インドのジョードプルもブルーシティーだったが、あちらは砂漠、こちらは山間部なので光の加減でまた違った雰囲気がある。ショウエンに滞在した3日間はすべて雨だった。ホテルの部屋はかなりかび臭い。2日前まで洗濯物が30分で乾いてしまうような場所にいたのに今は3日経っても乾かない。そこら中水色の街で毎日水に打たれていると気分が落ちてくる。(とても綺麗なのだが)

ショウエンを後にし、港街タンジェへ。そこから船に乗りジブラルタル海峡を渡りスペインのタリファに向う。このタンジェとタリファ、そしてサハラ砂漠、エジプトのピラミッドは全てある物語の舞台になっている。パウロ・コレーリョ著『アルケミスト』かなり有名な本なので知っている人も多いと思う。スペインのアンダルシアにいた羊使いの少年の旅の物語だ。僕はこの本を16歳の頃従兄弟にもらった(以前ブログに書いたインドなどを放浪していた従兄弟)。当時はこの簡単な物語の何がいいのかさっぱり分からなかった。しかし、年を重ねるごとになぜか読み返したくなり既に10回は読んでいる。この本のすごいところは読み返すたび新たな発見をもたらしてくれるところだ。前回読んだ時は全く気づかなかったところに自分が引っかかったりする。今ではよくもまあこんな薄い本の中にこれだけの内容を詰め込んだものだなと感心している。物語の実際の舞台で読むのはまた格別である。興味がある人はぜひ読んでみて欲しい。スルメのような本である。

タリファに着いたのは既に17時を超えていた。たった30分海峡を渡るだけで、時計が2時間も進む。どうしてもその日中にセビーリャに着きたかったので、すぐにバスに乗る。ずっと雨だった対岸のアフリカとは違いこちらはからっとした天気である。港で話したスイス人のおじさんの話では年間を通して気温差は10度ぐらいだという。「僕の育った街では一日で30度の気温差がある日もあるよ。まいったね」おじさんはそう呟いていた。このおじさん、現在はタリファに住んでいるのだが、かつて柔道留学で奈良県の天理に1年間住んでいたらしい。スペインの端っこの街で天理教に関して話をする。僕もかつて興味があって天理教のことを調べたり、実際奈良の天理まで行ったことがあった。まさかその経験がこんなところで活きてくるとは…不思議なものだ。

セビーリャに着いたのはもう日付が変わる頃だった。夜の街を歩くのはかなり危険だと思っていたが、街は人で溢れていた。インラインスケートをするおじちゃんやおばちゃんまでいる。日没が21時頃なのでみな寝るのが遅いのだろうか。この街のフラメンコはスペイン一情熱的だそうである。夜、宿のスタッフに勧めてもらった大衆酒場へ。初めて見るフラメンコは本当に力強く、会場の熱どんどん上がっていくのがわかる。演者の息遣いまではっきり聞こえるほどすべての客が息を飲んでステージを見つめていた。なんと贅沢な時間だっただろうか。しかし、僕はこの素晴らしいステージを1人で見ている。美味しいスペイン料理も1人で食べている。ここのところずっと誰かと共に行動していたので、久しぶりの1人は随分さみしい。

※最近の日記は起きたことを羅列するだけになっている…よくないな。

2013年4月1日月曜日

ティネリール→メルズーガ




201341日 ティネリールメルズーガ


早朝マラケシュからバスに乗りアトラス山脈を超える。イギリス人の友人に「本当に美しいところだ」と聞いていたが、彼の言うとおり車窓からの景色に一時も目を離すことができなかった。谷を縫うようにバスは進んで行くのだが、その両側にへばりつくように村が存在し、谷沿いにだけ植物が生えている。標高が高いところにはまだ雪も残っており、岩、家、植物、雪のコントラストが絶妙だ。アトラスを超えてしまえば風景は一転して砂漠になる。どこまでも広がる砂と岩の大地。アトラスの向こう側にはアラビア人が多く住んでいるが、こちら側には砂漠の民ベルベル人が多く住んでいる。この乾燥した砂漠にも人が住んでいるのだ。まずはトドラ渓谷に向かうためにティネリールでバスを降りる。

トドラ渓谷では4日間滞在し、久しぶりにクライミングをしたり、ハマムという公衆浴場へ行った。ハマムではムキムキのおじさんにアカスリをしてもらったのだが、自分が消しゴムにでもなったのかと思うほど垢が出た。何よりもおじさんに優しい手つきで石鹸を体に塗られるという体験はなかなかできるものではない。最後は整体のようなこともやってくれるのだが、お互い裸のため肌と肌が密着しこれまたなんとも言えない気分である。

トドラを後にして、巨大な砂丘のあるメルズーガへ。人生4つめの砂漠〝サハラ″は、今まで見てきたそのどれもを凌駕している。日本人がイメージする砂漠そのものだ。昼間に少し散歩をしてみたが暑くてとても長時間いることはできなかった。イスラム世界は月の歴で、国々の国旗にも月や星がついているところが多い。それはこの砂漠の暑さも関係しているのではないか?日中はとても人が活動できる場所ではない。こちらでベルベル人が砂漠で使うコンパスを見せてもらったが、これも月と星の位置で自らの場所と進むべき方向を確認できるようになっていた。国旗に太陽を使用し日出国と言われるところから来た自分にとって夜は死の世界、向こう側の世界だが、こちらの人の夜の捉え方は違うものだろう。
砂丘の上で旅について考えてみる。旅を初めて7ヶ月が経ち、旅は完全に日常になっている。知らない街を歩いていても日本にいる時とあまり感覚が変わらない。たとえそれが砂漠の真ん中の街でも。「それでいいのだろうか」という思いを抱えながらここのところ旅をしてきた。人は良くも悪くも様々な状況に慣れてしまう。だからといってさほど興味もない場所に行ったりアクティビティーに参加しても虚しさが増すだけだろう。少しずつ変化していく砂丘を見ていると、ただその場所にいて、その土地の空気を吸うだけでよい気がしてきた。結局僕は悶々とした中で何か分かりやすい達成感や目に見える結果を求めていたのかもしれない。しかし旅で得るものは形があるものではない、人生を通して少しずつ意味を見出していけるものだろう。ずっと悶々と考え続けるしかない。それでいい。

メルズーガでは日本にいた時からの知り合いに偶然会った。世界は広いようで随分狭い。
その他にも京都の料理人や岐阜出身のミュージシャンにも会うことができ、久しぶりに何をするでもなく皆でご飯を食べたり、音楽を聴いたりして過ごす。こういった時間もまた素晴らしい。