2012年11月25日日曜日

マナーリー





20121125日 マナーリー


ダラムシャーラからローカルバスで14時間かけて、マナーリーという街まで移動してきた。バスは渓谷の間を縫うように走っていく。山間部のローカルバスなので中国の時と同様に屋根の上まで荷物をいっぱいに積み込み、人そしてヤギまでも乗れるだけ乗り込んでくる。窓の外にははじめ茶畑が見えていたが、標高が上がるにつれりんご畑に変わっていった。まるで長野県を旅しているような気分になる。同じような地形や気候であれば、必然的に栽培される農作物や、道の作り方、人々の生活までやはり似ているものだ。お茶が栽培されているということは、ここも以前書いた照葉樹林帯に入っているのだろう。
結局僕が興味のある場所は日本にいる時と全く変わらない。気がつけば、北へ、さらに山間部に足が向く。今回旅に出る前にどうしても行きたいとピックアップした場所は、中国雲南省・ネパール・北インドにかけてのヒマラヤ周辺、スウェーデンラップランド地方、アイスランド、パタゴニア、カナダからアラスカにかけての北西部沿岸と寒くて、山ないし森があるような場所ばかりだ。

マナーリーは雪化粧をした山々に囲まれていてダラムシャーラよりも寒い。毎日ダウンを手放せないほどだ。この街の魅力は温泉があること。街の中にどこからでも丸見えな浴場がある。約3ヶ月ぶりに湯船に浸かると自然に深いため息が出た。やはり自分は日本人だなと思う。また、この街には山道を歩いて30分ぐらいしたところに大きな滝があり、その滝に向かう途中はローカルの人々の日常生活が垣間見れる。家や畑を作るため組まれた石垣は美しく、その間を馬のキャラバンが重たいレンガを背中に積んで歩いている。滝の下でタバコをふかしながらボーとしていると、下流の橋を4匹の羊と羊飼いが渡っていった。その姿に自然の中で生きる人間の謙虚さを備えた美しさを感じた。僕はずっと絶対的な存在の中の個の在り様に興味があるのだ。自分の制作でもずっとそれを表現しようと試みてきた。羊と羊飼いを見た瞬間、自分の興味の対象を再確認させられ、ハッと目が覚めた気がした。

一緒に宿に泊まっていた友人が「おれ海見て心動いたことないねんな」とつぶやいた。たしかに自分もそうである(もちろんでかいなーとかきれいやなーとは思います)。きっと人それぞれそういった場所があるのだろう。海や砂漠、大都会の人もいるだろう。今回の北インドは1週間で回る予定が、2週間の滞在に伸びてしまった。しかし、とても充実した日々だった。自分のアンテナに正直に従い、興味のある場所には時間をかけようと思う。それでいいのだ。

2012年11月19日月曜日

ダラムシャーラ





20121119日 ダラムシャーラ


ジャイサルメールから電車で18時間かけて首都デリーに戻り、半日時間を潰した後、バスで12時間かけて北インドのダラムシャーラまで移動してきた。

ダラムシャーラは標高が2000m近くもありかなり寒い。数日前までTシャツと短パンだけで過ごしていたのに、今は長袖にフリースを着て、さらにアウターを一枚羽織っている。それでも寒い。この気候の変化に完全にやられてしまい、ダラムシャーラに着いた翌日は激しい寒気と下痢が止まらなくなり、宿から全く動けなかった。弱っている時は元気な時の自分を忘れてしまうもので、もう旅を続けられないかもしれない、日本のみんなに会いたいと毛布に包まりながら考えていたのだが、翌日にはケロッと治ってしまった。昔から限られたスケジュールの中で予定を詰め込みすぎる癖があり、毎度のこと途中で倒れてしまう。そして反省しながらも同じことを繰り返す。元気な時は弱っている時の自分を忘れてしまうのだ。

体調も回復したので、昨日は早速トレッキングに出かけた。もう少し休めばいいものをほんとに懲りないのだ。片道3時間半程かけて標高2700mまで登った。そこは草原のような場所で、標高5000m程あるダウラーダール山系を望むことができる。現地で出会った日本人の友人は初登山で、装備の問題もありかなり疲れていたが、山頂からの景色を見た瞬間に「登山ええな」と漏らしていた。素晴らしい景色もまたそれまでの苦しい道のりを忘れさせてしまう。

ここダラムシャーラはインドにありながら、かなりの数のチベット人が住んでいる。というのもここにはチベット亡命政府が存在しているからだ。その歴史背景に関しては知っている人も多いと思うが、中華人民解放軍がチベットを軍事制圧したことにより、1959年にダライ・ラマ14世はインドに亡命し、ここダラムシャーラ(正確に言えばダラムシャーラの街の少し上にあるマクロードガンジ)にチベット亡命政府を発足した。それと共に数万のチベット難民もこの街に移住してきたそうだ。
チベットの人々を見ているとその信仰の深さに驚く。人々(特にお年寄り)は手の中で数珠の珠を動かしながらお経を唱え、マニ車を回しながらお経を唱え、お寺の周りを何度も回りながらお経を唱えている。同じことを繰り返しながらより良い来世、輪廻からの解脱を願う。似た顔をしているが信仰に関しては我々日本人とは全く違うように映る(もちろん一概にはいえない)。その差はなんだろうか?そう考えるとやはり土地の違いが浮かぶ。彼らチベット人が住んでいる(もしくは住んでいた)場所は高原で、放牧をしながら生活をしている。たくさんの資源に恵まれている私たちの国から見れば住むのが大変な土地だ。そこで生きる為には日々コツコツと同じことを繰り返していかなければならない。この繰り返しの生活に意味を見出す。「日々の生活、信仰の繰り返しがより良い来世に繋がる」そう信じることが人々にとって救いになるのではないか。以前旅したモンゴルにもチベット仏教を信仰する人は多い。なぜ離れた場所で同じ信仰をしているのかずっと疑問に思っていたが、あのモンゴルの平原を考えれば、同じことが言える気がした。
このブログのタイトルの「KALIPE」とはチベットの言葉で、「日々静かに歩め」という意味である。日々静かに歩むということは、日々コツコツと同じことを繰り返す事なのかもしれない。僕はこれまで何かを固定(覚悟)することを避けてきた。自分がどの方向にでも動けるようにしておくことが安心だったのだ。つまりコツコツ同じことを繰り返すとは全く逆である。しかし、何か一つ歯車を固定させなければ、何も噛み合っていかない。ここ3年はそんな事を考え出し、自分が空転しているような感覚があった。もしくは問題を先延ばしにしているような感覚。自分は何を固定(覚悟)することができるのだろうか?土地、仕事、人、もしくはずっと旅を続けること。この旅の中でずっとそのことを考えている。まあ覚悟しても続かないかもしれないが(笑)

明日はダライ・ラマ14世の法話が行われる。それを聞いてこの街を離れようと思う。

※チベット仏教に関して資料をしっかりと読み、こちらの人と信仰についてもう少し考察して書きたかったのですが、旅先ではそれも難しいので、とりあえず今考えたことを残すという意味で日記に書きます。ですからこれは僕がその場で見て考えた浅い考察です。悪しからず。

2012年11月13日火曜日

ジャイサルメール




20121113日 ジャイサルメール


パキスタンとの国境まで100km、砂漠の街ジャイサルメールに来た。ここでの目的は駱駝に乗って砂漠を歩き、砂漠に泊まるキャメルサファリである。

ジャイサルメールを出てすぐ辺りは荒涼とした砂漠になる。砂漠といっても一面サハラ砂漠のように砂だらけというわけではなく、ポツポツと木が生えた乾燥した大地の中に鳥取砂丘クラスの砂丘がいくつかあるといった感じである。その風景は8年前に旅したモンゴルのゴビ砂漠を思い出させた。2人のキャメルマン(駱駝使い)3匹の駱駝で僕のキャラバンは出発した。辺りは何もない世界。もし数人で地元の話をしている中にこの砂漠出身者がいて、「地元何もないんだよね」と言われてしまえば、もう誰もそのワードは使えなくなってしまうだろう。それぐらい何もない。その中で人々は申し訳程度に積み上げられたレンガの家か、木の棒と布だけで作ったテント(というか日よけの屋根)か、もしくは木の陰に住んでいる。一見何の目印もないように見えるこの土地でも、ここに住む人たちはそれぞれの家の場所や家畜がどこにいるかも把握している。それがその土地に住むということなのだろう。2時間ほど駱駝に揺られて到着した砂丘を裸足で歩く。西の空には地平線に沈んでゆく太陽が見え、砂丘はオレンジ色に染められてく。地平線という言葉は日本ではなかなか実感がわかないが、ここでは定規で引いたような地平線を見ることができ、みるみる沈んでいく太陽を見ていると地球が回転しているのだと実感できる。

太陽が沈んでしまうとキャメルマンたちは焚き火をはじめ、まず美味しいチャイを入れてくれた。その後同じ焚き火でカレーを作り、チャパティというインドのパンも焼いてくれた。このチャパティは今までインドで食べたモノの中で一番美味しかった。しかし、カレーは尋常ではない塩辛さで、おかわりは丁寧に断った。太陽が完全に沈んでしまえば、辺りは真っ暗になり、空には満天の星空である。星空、砂漠、駱駝、焚き火、男が3人とこれば、話すことは1つしかない。そう下ネタだ。英語が苦手なのにも関わらず、下ネタだと理解できてしまうのは不思議なのだが、年配のキャメルマンがこのツアーで起きたキャメルマンと日本人女性ツーリストのアバンチュールを事細かに話してくれた。話に熱中する彼からふと自分の足元に目を移すと、なんとそこには野生の蠍がいたのだ。僕の足とは1cmしか離れていない。うわぁ!と大声を出すと、キャメルマンは瞬時に自分のスリッパを思い切り蠍に振り落とした。ビチャ!いう音と共に蠍は潰れたのだが、その液体が全て若いキャメルマンの服に飛び散った。彼も奇声を上げたのを見るとやはり蠍はローカルにとっても怖い存在のようだ。しかし年配のキャメルマンは気にせず下ネタの続きを話しだした。彼を制し、蠍はいっぱいいるのかと聞くと、「そんなにいない。火を焚いているから寄ってきたんだよ」と答え、また下ネタに戻る。今日はこの砂漠に布を直ひきし寝るのだ・・・・大丈夫なのか。そんな心配をよそに焚き火の火が消えるとキャメルマンたちは寝る用意をはじめた。まあ気にしてもしょうがないので僕も寝ることにする。
あんなにたくさんの流れ星を同時に見たのはそれこそモンゴル以来だった。寒さもあり何度か起きてしまったが、その都度目の前に広がる星空が変化していた。目の錯覚かもしれないが、辺りが明るくなるにつれ見える星は減っていき、今まで光って見えていた星のあとは黒い点になっていた。まるで空に穴が空いているようだ。それは星空より幻想的だった。

別れ際キャメルマンは、「もし君が日本に帰ってインド料理屋をやるなら俺を雇ってくれ」と言った。うーん、チャイとチャパティーは合格だが、あのカレーはアウトだ。

2012年11月10日土曜日

ジョードプル




2012119日 ジョードプル


ピンクシティージャイプールからブルーシティージョードプルに移動してきた。間違えて各駅停車のチケットを取った為、本来5時間半程で着くはずの所を12時間もかかってしまった。窓の外の景色はずっと乾燥した砂漠で、窓を開けて外をずっと見ていたら治りかけていた喉が再悪化した。しかしインドで出会う日本人はほとんど喉をやられているので、これはインド旅行に付き物なのだろう。がまんするしかない。

昨日はこの街を見下ろしているメヘラーンガル砦を見学しに行った。入場料は多少するが、入場料の中に音声ガイド代(日本語有)も含まれており、当時この場所にあったマールワール王国の歴史、マハーラージャの生活にも関しても丁寧に解説してくれるので、大変満足のいく見学ができた。この旅の中で様々な建築物を見てきたが、このメヘラーンガル砦の佇まいは郡を抜いてかっこいい。砦は切り立った岩の上に建っており、城下街からそれを見上げれば、その圧倒的な存在感にマハーラージャに逆おうという気は全く起きない。また逆に砦から城下街を見下ろすと、あたかも自分がこの世界をすべて手に入れたような気分になってくる。街はほとんどの家の壁が水色に塗られており(これがブルーシティーと言われる所以)、コーランや大音量のインドポップスが流れ、人々が屋上で洗濯物を干している。飽きずに1時間は街を見ていただろうか、まるでタイムスリップしたような気分になった。この砦は今でもマハーラージャの所有物だそうだ。

今日は街中を散策した。やはりこの街も路上は混沌としているのだが、デリーやジャイプルに比べるとのんびりした空気が流れている。バサールには、ベジタリアンの多い国なので(ヒンドゥー教徒は基本的にはベジタリアン)色とりどりの野菜が売られていた。また、鍛冶屋、染物屋、陶器屋、竹細工屋も数多くあり、路面の店のすぐ奥で実際に商品を作っている。日本ではモノが作られている工程を見ることはほとんどできない。すべてはすでにパッケージされてお店に並んでいる。これはモノ作りの分野に限ったことではなく、日本では見えないようにされているものがこの国では『人の生や死』も含めて全部見える。しかもしつこいようだが路上で見えるのである。色々と面白がって街を歩いていると目の前から“13組福田”という名札のついたジャージを着たおっさんが歩いてきた。この服の元の持ち主はまさか自分のジャージをジョードプルというインドの地方都市に住むおっさんが着ているとは思ってもみないだろう。世界は知らないところで繋がっているなとおっさんの後ろ姿を見ながら思った。

2012年11月7日水曜日

デリー→ジャイプル




2012116日 デリー→ジャイプル


多くの旅人にとってインドが特別な場所であるように、僕にとってもインドは旅立つ前から特別な場所だった。

16歳の頃、失恋によって一週間家出をしたことがある。家を飛び出したはいいが、当時の自分にはどこに行っていいのか見当もつかず、結局隣の県に住む親戚の家に転がり込んだ。ちょうどその頃従兄弟が長期のインド旅行から帰ってきたところだったので、一週間ずっと旅の話を聞き、たくさんの写真を見せてもらった。その話と写真は16歳の僕の心を鷲掴みにし、それまでせいぜい自分の住んでいる街とその周辺しか知らなかった僕に、ここではないどこかがあるということを強烈に意識させた。またそこに行く自由が自分にもあることを同時に知った。今考えるとあの時が今までの人生で一番のターニングポイントだったように思う。それ以来インドはここではないどこかの代名詞になった。実家に戻った後もインドについて書かれた紀行文を貪るように読んだ。そして今、しつこいリクシャワーラー(バイタクや人力車の運転手)、目を背けたくなる物乞い、前が見えないほどの土埃、街中を堂々と歩く牛、けして鳴り止まない騒音の中インドの道を歩いている。あの時からすでに11年が経った。インドも従兄弟やさらに上の世代が旅していた頃からは相当変化しているようだ。しかし、それでもやはりインドはインドだ。混沌という言葉はこの国の為にあるように思う。

3日前にニューデリーからインド入りし、昨日電車でラジャスターン州のジャイプルに来た。乾燥した気候と巻き上がる土埃で喉は完全にやられてしまった。でも乾燥した街の中で女性の鮮やかなサリーや道端で売られているスパイス、花の色が栄える。本日はジャイプルにある城や天文台を見に行ったが、どれもスケールが大きい。インド人がこれを作るのかというなんとも失礼な驚きがあった。ますます簡単には理解できない国だ。一ヶ月という短い期間でこの国の本質に少しはタッチできるだろうか・・・・

今日いろんな場所に連れて行ってくれたリクシャワーラーのお兄ちゃんが「日本の象は路上を歩いているかい?インドでは犬も牛も馬もヤギもラクダも象も人間もみんな路上にいるんだ。僕はそんなインドが好きさ。」と言っていた。路上という言葉はこの国を見る上でいいキーワードだなと思った。

2012年11月1日木曜日

サムイ島→パンガン島




2012111日 サムイ島→パンガン島


前回のブログで書いたとおり、旅の疲れを癒すため5日間程タイ南部のサムイ島に滞在してきた。照りつける太陽、揺れるヤシの木、透き通る海サムイ島は絵に書いたようなリゾート地で、ビーチに寝転びココナッツジュースを飲みながらビキニの外国人を毎日観察する予定だった・・・・。

島について2日目、朝起きるとどうも左足のアキレス腱が痛む。はじめはマッサージかストレッチでもすれば治ると思ったが、ベッドから起き上がり歩こうとするととても歩けるような状態ではなかった。前日も特に左足を酷使したという記憶もなく、何が原因なのか全くわからない。結局その日から2日間は全く動くことができず、ひたすら宿で本を読むという生活になってしまった。その為、海では一切泳いでいない。

4日目はちょうど満月の夜であり、サムイ島の横にあるパンガン島でフルムーンパーティーが行われた。この島はパーティーで有名な島であり、満月に限らずブラックムーン、ハーフムーンとしょっちゅうパーティーが行われている。このパーティーへの参加が今回のもうひとつの目的である。幸いこの日の朝には足もほぼ完治しており、夜の1100頃高速ボートでパンガン島に向かった。会場は1km程あるように見える大きなビーチで、いたるところにDJブースやお立ち台が設営されていた。そしてビーチを埋め尽くす世界中から集まった人人人。踊り狂う者、ビーチで横になる者、海でおしっこをする者、ローカルの物売り皆一様に酔っ払っている。友人たちと集合場所を決め1人ビーチを歩く。それぞれのブースでは異なったジャンルの音を流すため、皆自分が踊りたい音を探すのだ。僕が選んだ場所は比較的インド人とイスラエル人が多く、年齢層も少し高めの時代を感じるエリアであった。はじめは少し外れたところで踊っていたがお酒が入るにつれジリジリと前に詰め寄り、いつの間にか右スピーカー前を確保していた。高さ4m幅3m程ある巨大スピーカーから放たれる重低音で僕の服はたなびいていた。ナンパ目的やただ暴れたいような人がいないエリアだったので、だんだん踊っている人が固定されてくる。右スピーカー前は、北欧系のカップル、ドレッドのイスラエル人2人、ドイツ人っぽいおばさん、巨大なインド人3人、唯一のローカルタイ人の男子、刺青だらけのロシア人、完全にキマっているフランス人っぽい女の子、そして僕だった。皆DJブースやスピーカーに向かってひたすら踊る。その中には一種の共通意識のようなものが生まれ、バケツに入ったウイスキーやウォッカが次々と回ってきた。タダ酒を頂き、右スピーカー前を3時間死守した僕は放心状態で深夜4時の海を高速ボートでサムイ島に帰った。

今日無事にバンコクに戻り、インドビザも取得できた。結局半月近く滞在したタイの印象は、外国人がハメを外す場所といったところだろうか。もちろんタイはそれだけではないだろう。人々は優しく信心深い。綺麗な場所もいっぱいある。しかし僕が15日間で見たタイは前記に尽きる。たくさんの欲望と誘惑がうずまき、それに対してまあいいかと飲み込まれてしまう空気がこの国にはある気がする。微笑みの国タイはけして優しい微笑みだけではない。今朝、戻ってきたカオサンロードでは相変わらず上半身裸、裸足でフラフラ歩く欧米人を何人も見たし、朝4時半にもかかわらず街には爆音で音楽が流れていた。僕も例外ではなくこの国にたくさんのものを吸収された気がする。どこかで冷静な自分が冷ややかな目でこっちを見ていた。しかし、これも経験だ。他の国ではこんなに遊ぶことはできないだろう。

さあ明後日の早朝にはインドに到着してる予定だ。きっと東南アジアのようにはいかない。気の抜けてしまった身体と頭をリセットして、旅を続けて行きたい。