2012年9月30日日曜日

昆明→河口→ラオカイ→サパ




2012930日 昆明→河口→ラオカイ→サパ


悪夢ような時間だった。

大理から再度昆明に戻り、ホステルスタッフに国境の町河口行のバスチケットは簡単に取れるかと聞くと、当日でも全然問題ないという。安心しきった僕は翌日バスターミナルに乗りたいバスの発車1時間前に到着した。しかしその場の状況に目を疑った。チケット待ちの人の列が既にターミナルビルからはみ出していたのだ。しかも何列も。中国では10/1から日本のGWのような大型連休に入るので、その間は民族大移動が始まりとても動ける状況じゃないことはわかっていた。だからこそその前に出国しようと思っていたのだが・・・ふと時計を見ると土曜日となっている。ということは・・・そう大型連休の前に週末の休みがくっついていたのだ。つまりは超大型連休。旅をしているとついつい曜日感覚がなくなるので油断していた。もう民族大移動は始まっているのだ。

とにかく列に並び、順番を待った。その間乗りたかったバスは当然出発。しかし諦めることなく並び続け、窓口で目的地を紙に書いて渡すと、12時間後に出発するバスならまだ席があるという。そこをなんとかもっと早いバスはないかと言うが、「あほか、取れただけでもありがたいと思え」的な顔をされる。しょうがなくそのチケットを受け取るが、さてどうしたものか。観光も考えたがどこに行っても人はいっぱいだろうし、万が一バスの時間に間に合わなければそれこそまずい。僕はただただ待つことにした。ただ12時間待つという苦しみを想像して欲しい。しかも僕は日本人であることを必死に隠しながらその場にいるのだ。いったい落語を何席聞いたのだろうか・・・

なんとかその時間をやり過ごし、怒声や泣き声があちこちで響くバスターミナルをすり抜け、バスに乗ったはいいが、そのバスは以前ブログで書いたベッド式夜行バスで、最後ギリギリでチケットをゲットした僕は案の定雑魚寝の席になり、そこから9時間中国人と仲良く5人並んで寝ながら移動したのだ。それだけではない、街に着いたのは午前3時、国境の開放は午前8時、つまりはここからまた5時間待たなければならなかった。しかし、もう5時間という数字は大したことないと思えるようになっており、鳩の鳴き真似をするホームレスのおじさんを観察したり、同じように待っていたベトナムの女の子と話したりして過ごした。そんなこんなで中国側の河口からベトナム側のラオカイに歩いて国境を渡り、疲れきった状態で闇両替屋にかなりぼったくられながらも私は今サパという小さな山間部の村におり昼からビールを飲んでぐったりしている。

中国の1ヶ月間は本当に内容の濃いものだった。途中からの緊張感は、この先なかなか体験できないだろう。国と個人は違う。狙われる立場として中国にいた僕は強くそう思った。が、逆の立場だったらどうだろうか。僕が日本人とわかっていてたくさんの人が親切にしてくれ、時に他の中国人からかばってくれた。彼、彼女達には感謝しきれない。難しい状況の中で旅をしていたが、僕はこの国が本当に好きになり、たくさんの友達もできた。できることならもっと滞在したいとさえ思う。

ただ最後に中国の感想を一言で表すのであれば「女の子がかわいい」これに尽きるのである。

2012年9月27日木曜日

麗江→大理


 

2012927日 麗江大理


香格里拉を後にし、麗江という町へ。出発前に何人かの中国人に事件があったから今日本人が麗江に行くのは危ないよとアドバイス受ける。しかし、インターネットでは日本人が被害にあったという情報は全く出てこない。実はお金をもらってデモに参加した中国人がいたとか、デモ中に間違えて中国人が暴行されたとか、相手の揚げ足を取るようなニュースばかりで肝心の情報は何も報道されていない。これは日本だけではなく中国も同じだろうが、ますますマスメディアは信用できないなと思う。そんなことがあったので麗江は一晩泊まっただけで次の街大理に移動した。

大理はかなり大きな湖の横にある古い城下町でペー族という民族が暮らしている。まるで母の実家近く滋賀県の近江八幡のようだ。昨日は宿から1時間ほどかけて歩き湖を見に行った。城下町を出ると辺り一面の田園風景で、ちょうど稲刈りの季節だったのでたくさんの人が田んぼに出て農作業をしていた。母の実家は農家なので、祖父母の家に遊びにいったかのような感覚になる。日本を出る前に読みたいと思っていた本に中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』というものがある。結局旅の準備でバタバタしていて読めなかったのだが、この本の中で書かれているのは照葉樹林文化論という70年代の学説で、具体的には日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心として、西はヒマラヤから、東は西日本まで半月弧に広がる照葉樹林帯に集中しており、それらは共通の起源地から伝播したという仮説だ。実際に雲南省に来てみるとたくさんの共通点があり、知らない街だとは思えない。
湖畔で一人たそがれていると、薬丸裕英似の青年に話しかけられた。彼は中国語しか話せず、彼のiPhoneを使って翻訳し合いながら会話をする。やたら一緒にどこかに行こうと誘ってきたので、彼がおすすめする湖の反対側までバスで2時間かけて行ってみた。ちょうど昼時で一緒に雲南省のローカルフードを食べることになったのだが、出てきたのは生きている時の豚を否が応でも想像してしまうビジュアルの生肉だった。日本でも生肉は食べる?と質問され食べないことはないと答えたが、ここは道路も舗装されていないド田舎で保存方法は不明である。二三切れ食べたが、日本のレバーの事件が頭を過り、トイレに行くと言ってすべて吐いてしまった。申し訳ないが味も覚えていない。

今日は1人山へトレッキングに出かけた。地図がないので不安だったが、馬の蹄の跡を頼りに歩いていく。前日の夜に雨が降ったので、地面は土と馬糞でぐちゃぐちゃである。靴もズボンも大変なことになった。山を歩いていても植生がいつも歩いていた岐阜や京都の山と同じなので全く違和感がない。途中石畳の道がチラチラと現れる。今まで旅してきた香格里拉、麗江、大理には唐代から1000年もの間続いた茶馬古道』という道があった。雲南省で採れた茶葉をチベットまで運び、チベットからは馬を運ぶ交易路だ。この道がその跡かは分からないが、時間があればこの茶馬古道に関してももっと調べてみたかった。今回はもう時間がない。雲南省だけでもあと1ヶ月は旅をしたい・・・

夜はホステルで仏教徒のドイツ人おばあちゃんと、2年かけて自転車で世界を旅しているスウェーデン人の夫婦とチベット自治区の問題に関して話をした。まあ僕は聞いていただけだが・・・思うことはあってもそれを伝えるほどの英語力がない。

※茶馬古道でお茶の話が出たのでついでに、諸説あってどれが正しいかわかりませんが、一説では日本にも鎌倉時代初期にお茶が伝えられたといわれています。(茶も照葉樹林)その日本で最初に茶の木を植えたのが京都の高山寺だそうで、今でも茶畑があります。僕はこのお寺が京都の中で一番好きです。ちょっとアクセスは大変ですが、おすすめです。

2012年9月23日日曜日

香格里拉



2012923日 香格里拉


まだ中国の雲南省を旅している。

中国の寝台バスは2段ベッドが中に3列に並んで設置してあるのだが、最奥の席だけ通路分も含めて5人雑魚寝のベッドになっている(わかるかな?)。運悪くその席になってしまった僕は中国人の男性4人と雑魚寝しながらの移動になった。さらに空調の調子が悪くエアコンがまったく効かなかった為、周りは全員上半身裸になり、暑さと体臭でまったく寝ることができないまま17時間を過ごし、昆明から標高3300mの香格里拉まで上がってきた。

この街は、デチェンチベット族自治州で、映画化された小説『失われた地平線』(ジェームス・ヒルトン著)の舞台になった理想郷シャングリラを、地方政府がこのエリアがモデルだと主張し、2002年に名前まで変えてしまったところだ。僕はこの街を高校生の頃テレビで見て、すごく惹かれるものがあり長い間片思いしてきた。きっと顔が似ているという親近感と彼らの信仰や標高3000m以上の高地での生活という自分の生活とは全く違う部分に興味を持ったのだろう。10年越しの想いで訪れた香格里拉の街は観光地化が進み、僕の思い描いていたものとは違っていたが、昨日今日とローカルバスに乗り、近くの村や国立公園を回ってみると、そこには僕の理想郷がまだちゃんと待っていてくれた。

山間部のバスは人々の大切な足である。街の学校で寮生活をしている子供たちを週末家まで運び、屋根には街で購入した大量の荷物が縛り付けられ、ヤギまで乗せられる。ローカルバスに乗っているとそうした山の人々の生活が垣間見える。旅が始まってこれまでどうしても都市部ばかりの移動になっており正直消化不良になっていたが、ここへ来てやっといつもの旅のペースが戻ってきた。日本でもこういった山間部ばかり旅していたのだが、服装や会話の内容(なんとなく)、食事、住居、雰囲気など共通部分の多さに驚く。

この辺りの山間部にはいわゆる少数民族の人たちが暮らしている。山を超えるともう女性の衣装が違ったりするのだ。あるナシ族の村でバスを待っていると、おばあちゃんたちがこっち来て一緒にご飯を食べろと誘ってくれた。おばあちゃんたちは「あなたは日本人でしょ?私たちは大丈夫。それにあなたは一人だから呼んだのよ」(以下全てボディーランゲージやフェイスランゲージで会話)と言ってくれた。他にもチベット仏教の僧侶は僕が日本人だと言うと、「それはここだけの内緒だ、他では言うな」とアドバイスしてくれたし、あるおじいちゃんは他の観光客が行かない秘密のスポットをこっそり教えてくれた。今回中国の旅を続けようと思ったのは、香格里拉にどうしても行きたかったのと、そこが少数民族の人たちが多い地域でおそらく安全だと思ったからである。(国民の92%を占める漢民族に対する彼らの思いはなんとなく想像出来る)やっぱり中国は奥が深く面白い。

※ホステルで一緒になった中国人はだいたい優しくしてくれます。あと台湾や香港の子も大変だねと心配してくれています。幸い大陸寄りの顔なので街中では何度も中国語で話しかけられますし、国を聞かれれば韓国人と答えています(韓国、中国、日本の人に申し訳ないなと思いながら)

2012年9月19日水曜日

成都→昆明




2012年9月19日 成都→昆明



寝台列車は朝七時半頃昆明駅に着いた。さてこれからどうするか。昆明は中国の最南西にある雲南省の省都である。この街からはベトナムやラオスとの国境までバスが出ている。

成都ではたくさんの日本人バックパッカーにも会うことができ、久しぶりに日本語を話す機会が多かった。自分の言いたいことが全部言葉にできるというのは本当にうれしいことだ。また杭州で出会った王くんも2ヶ月間の国内旅行から自分の街に帰ったところで、美味しい四川料理の店や、成都郊外の観光地を案内してくれた。成都そして四川省はほんとうによいところだ。街、人、食、博物館、お寺どれもが満足行くものだったし、今回行けなくて悔しい思いをしたところもたくさんある。中国人の中でもこの街に住んでしまうと他には住めないと言われているらしい。納得である。

しかし、成都で日々を過ごしている中に、自分の国と中国の状況はどんどん変化していた。あまり深刻に考えていなかったが、ここ数日の状況の変化は街を歩いていても感じるほどだ。成都でも連日デモが続いた。家族や友人などから心配のメールをもらい、インターネットで現状を見てみるとかなり深刻な状況だとわかり、Xデーとされていた昨日は風邪をひいていることもあり、そのまま成都で状況を見守るか、それとも移動してしまうかかなり悩んだ。が、いつ収拾がつくかもわからない問題を待っていてもしょうがないので、結局列車に乗り昆明まで来てしまったのだ。今考えうる選択肢は2つで、予定を早めて出国してしまうか、それとも中国の旅を続けるかである。今回中国の中で一番楽しみだったのはこの雲南省だったという点、中国全土の中で雲南省は比較的安全という点でなかなか判断できない。どちらにしても以前ブログのなかで「私が私が」というのが大切だと書いたが、今はまったく逆の状況である。

さて私は次にどこからブログを更新するのでしょうか。

※心配のメール等を下さった皆さん。ありがとうございます。今日試してみたのですが、ひとりで街を歩いている限りは問題はありません。ご心配をおかけして申し訳ございません。

2012年9月14日金曜日

西安→成都



2012914日 西安成都

昨日西安から寝台列車で成都に移動してきた。寝台列車は思いのほか快適。しかし、西安駅の人の多さに危うく列車に乗り遅れるところだった。その際も偶然後ろに並んでいた女の子が英語を話せる子で、色々と助けてもらった。こちらに来てからなぜかピンチの時英語を話せる中国人の若者が助けてくれる。よく“どこでも寝れる”や“なんでも食べられる”という人がいるが、それはどこなら寝れて、何なら食べても大丈夫かを直感的に判断が出来る人らしい。それと同じように切羽詰った状態になった時、誰が自分を助けてくれる存在なのかなんとなくわかるようになってきた。これは人に騙されないためにもとても大切な能力なので、これからどんどん磨かれてほしい。

西安には前回の日記後3日間滞在していた。西安はシルクロードの到着地であるためイスラム人街がある。そのエリアは羊の肉がいたるところにぶら下がっていて、他のエリアとは全く別の匂いがする。その匂いと彼らの顔は西の乾燥した大地を想像させる。ホステルで出会った同じ歳の日本人女性は今からカザフスタンやウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンなど中央アジアを1人で旅してヨーロッパまでぬけるらしい。一度行ってみたいが、それをしていたら2,3年は日本に帰れないかもしれない。欲張らない欲張らないと自分に言い聞かせる。無理のない程度に密度を大切にしたい。

成都は本日ゆっくり街を歩いてみたが、とても落ち着いていて綺麗な街だ。(あくまで中国の中で)。今まで会ってきたバックパッカーがみなこの街を褒めていたのも頷ける。以前も書いたが川沿いや広場でたくさんの人が舞踊や太極拳、マラカス(ものすごい集団で)、合唱などを楽しんでいる。その中でも僕が一番好きなのは4つ打ちのビートでダンスを踊るお年寄り達。皆で決まった振り付けを踊る様は、まるで一時期流行ったパラパラだ。歩いているとどこからともなく『ドン・ドン・ドン・ドン』。はじめはパーティーでもやっているのかと思ったが、行ってみると大量のおじいちゃんおばあちゃんが真剣に踊っている。なかなか日本では見られない光景にこちらもテンションが上がる。

成都には中国で最長6日間の滞在予定。というのも杭州で出会った中国人の青年のホームタウンで、彼が旅から戻るのを待ち、街を案内してもらう予定だからだ。

写真は街中の亀売りのおじいいちゃん。生きた亀を売っている。こちらもCOOL

2012年9月10日月曜日

西安


2012910日 西安

杭州から一度上海に戻り、そこから一気に内陸にある西安まで移動してきた。中国に来てまず思うことはその圧倒的な大きさである。日本の感覚で移動を考えてはいけない。国土は日本の25倍もあるのだ。そして一ヶ月という短い期間でこの国を見るというのは無理がある。駆け足で立ち寄った場所にあるものを覗き見る程度だ。まあ27年間生きてきて、自分の国でさえまだ行ったことのない場所がたくさんあるのだから当たり前。短い期間で旅行をするのであれば、少々無理をしてでもたくさんの場所を周るが、今回はいつまでたっても旅行。旅行が日常なのだから自分で休憩を入れないとしんどくなってしまう。

西安には勤めていた大学で博士課程に在籍していた友人が住んでおり、着いて二日間は彼女のお姉さんが経営するホテルに招待してもらった。また彼女の家族(旦那さんと3人の子供、ちなみに彼女は現在大学の先生)、彼女の友人(といっても西安映画界の重鎮的なおじいさん)と高級料理を食べに行き、中国でもトップクラスのお酒を飲ませてもらった。今回の旅一番の贅沢になるかもしれない。最後にマフィアのボスにしか見えないおじいさんに根拠は不明だが「おまえは大丈夫だ」とお墨付きを頂いた。西安にはあと2日ほど滞在予定。

次の街成都には、寝台列車で19時間ほどかかる。中国の列車は全て指定席制なのだが、この列車のチケットを取るのは至難の業である。まず当日券というのはほぼ期待できない。発売日を自分で調べ、取りたい列車の番号と席を紙に書いてチケット売り場に行く。しかしそこには信じられない人数の中国人がいる。列はどこまでも伸びているし(写真のように整列はしていない)、横入りは当たり前。並んでやっと自分が買えるという時に窓口が閉まったりする。ここでは日本人が苦手とする“自分が自分が”という強い気持ちを持って、なんとか横入りを阻止しながら、自分のほしいチケットを獲得しなければならない。横でどれだけうるさく捲し立てられても、日本だったら捕まる距離で体を押し付けられても無視だ。

中国は人の熱が目に見える。面白い。

※兵馬俑も行きました。
※友人家族は大学院に通いながら、京都の高野で老安記という中華料理屋を経営してました。左京区の方にはけっこうおなじみ。

2012年9月6日木曜日

杭州


201295日 杭州

連日雨が降っている。杭州という街に来た。この街の西湖は2011年に世界遺産になっている。

前日の夜この街に到着。同室になった中国人の若者はみないい人で、さっそく一緒に夕飯を食べに行った。みな気を使ってたくさん質問をしてくれるのだが、英語が分からず、なかなか会話にならない。申し訳ないと思うのだが、みな我慢強く付き合ってくれる。じつはこの街に来る時も一人の青年がチケットの購入から宿の手配まで全てをやってくれたのだ。ユースホステルでは国内旅行をしているたくさんの中国人に会う。大学を出ている子が多いので、ある程度豊かなの家庭の子達なのだろう。そしてみなびっくりするぐらい英語を話せるのである。話をしているとみな外国には行ったことがないと口を揃えて言う。まずビザを取るのが大変だということだ。なんとなく優しくしてくれる理由も国内のあちこちに旅行している理由もわかる。ビザなしでかなりの国を旅できる私たち日本人は恵まれている。

翌日、西湖をぐるっと歩いてみる(この時もある青年が無料で案内してくれた)。とても静かな湖で、湖畔の道もとても整備されている。観光客用の船もたくさんあるのだが、僕も案内してくれている彼もお金がないので見るだけ・・・。一周3時間半程で僕にはちょうどいい散歩だった。湖畔では太極拳や剣を使った舞踊、カラオケ等昼間から大人たちが各々楽しんでいる。中国ではみな声がでかく早口なので忙しない印象を受けるが、実際はとても穏やかな時間感覚を持っているのだろう。

それにしても日本人に会わない。泊まっているユースホステルには世界中から若者が集まってきているのに・・・日本語話したい。

2012年9月3日月曜日

上海


201293日 上海

昨日11:00頃無事に上海に到着。23日の船旅はあっという間だった。

運がいいことに日本海はかなり穏やかで、ほとんど揺れることもなかった。

船で偶然同室だったのがJTBの添乗員の方で、行ったことがある国は50カ国を超えているそうだ。困ったときの対処法などさすがプロと言える話をたくさん聞くことができて本当によかった。

さて上海である。約2年半ぶりの海外。入国審査を済ませた僕は意気揚々と街に繰り出した。そうそうこの異国の匂い、交通ルールを守らない具合、何を言っているのかわからない言葉、自分は今外国に来ている。これから長い時間をかけてこの馬鹿でかい大陸を横断するのだ。大陸ぐらい大きな不安とそれと同じぐらいの期待。周りからはどう見えているのかわからないが、歩き出して10分後に若い女の子に話かけられる。

「写真を撮ってもらえませんか?」

そんなことはお安い御用だが、彼女は僕が日本人だとわかるとびっくりした様子で中国人かと思ったと言った。彼女の英語はとてもなめらかで、留学でもしたのかと聞くと、海外に出たことはない、私は中国のかなり田舎から出てきた大学生で、上海には観光で来ていると言う。英語レベルが中学生かそれ以下の僕が彼女の話を一生懸命聞いていると、お茶に行かないかと誘ってきた。まだ午前中で急ぐこともなかったので、彼女についてあるお茶屋さんに入った。そこには中国茶のセットがあり、店員の女の子が中国式のお茶の作法やそれぞれのお茶の飲み方などを説明し、大学生の彼女が英語でそれを一生懸命伝えてくれた。お茶は本当に美味しく、感動するものだったが、飲んだあとに今飲んだお茶の中から一番良かったものを選べと言う。なんとなく選んで指すと、店員の子がそれを袋詰めしだし、びっくりする価格(貧乏人の感覚で)を提示してきたのである。一生懸命この値段はない、日本ではすごい大きな額だと訴えると、上海は物価が高いし、お茶でこのぐらいの値段は普通だという。大学生の彼女もそうだそうだと頷いており、もう飲んでしまった後でお茶の相場もわからなかったのと大学生の彼女の前で大声で怒鳴ることは気が引けたので、その額を払った。なんとなくしこりを抱えていたが、その後も大学生の彼女は僕の両替までついてきてくれ、中国の若者事情や都会と田舎の感覚の差など本当にたくさんのことを教えてくれた。最後には写真も撮った。

彼女と別れ、一人ゲストハウスに向かっていると、何故か妙に若い女性から道を聞かれるのだ。そして決まって「中国人かと思った」「お茶でも行こうよ」と続くのである。はあ・・・・そういうことか・・・・。いきなり海外の洗礼を浴びてしまった。そう僕は今外国に来ているのだ。

ちなみに一般の人からもかなり頻繁に道を聞かれる。ほんとに中国人に見えるらしい。聞きやすい顔なのか?サングラスでも買おうかな・・・